とくに意識したわけではないのだが、最近読んだ三冊はどれもゲームやアニメなどの娯楽についての話だった。たとえば上の本はゲームやテレビのせいで子供たちの脳が、考えることができない状態に陥っているということをに対して警鐘を鳴らしている。その原因を幼少期から保育園に任せきりにし、テレビを延々と見せ続け、といった「親との関わりの少なさ」から始まる一連のコミュニケーション不足(対話というのは非常に重要な要素で、こちらが話せば相手が変わる経験、声をあげて読む力、課題への取り組み方将来の計画についての話しあいなど様々な能力を育てる。特に幼児期は。)。それから当然本を読まないことからくる言語能力の不足。本書の内容を簡単にまとめると、ひたすらテレビを攻撃して、ゲームも根拠が薄いまま攻撃して、本を読め本を読め本を読むとこんな利点がある──と叫び続ける感じです。主張が極端にすぎるし、データを自分のいいように解釈しすぎている感があるのであまり面白くなかったです。とくにゲームに関しては、大部分の教師はゲームで遊ぶ子供は個人的な世界にひきこもっていると指摘している、などといって批判しているけれど、大部分の教師がなんなのかぼくにはわかりませんし、まったく信用できない。
それに対抗するかのようにして書かれているのがこの「ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている」です。ゲームやテレビを見ることによって、むしろ知能のレベルは上がっている! ということを証明するのが本書の目的で、現にIQ自体は毎年着々と増加を続けているんですね。その理由を本書では、テレビやゲームが複雑化し、それを把握するために人間の脳も進化していくといっています。たとえばテレビも出てきた当初から比べれば登場人物は多くなっているし、自然、物語も複雑なものになっていく。ゲームはクリアするためにも複雑なミッションをこなさなければならない。それをやるためには当然脳も複雑化していくしかないと。ただやっぱりこっちも意見がほとんど眉つば。それはなぜかというと、根拠がIQの上昇にしかない点である。いわゆるIQテストのようなもので点数を取る能力だけが、テレビやゲームでは鍛えられるのではないか。そういう考え方も当然できる。まあゲームやアニメを見ることが、何かの能力をあげているのは確かなようです。だから一方的な差別はよくないっと。
ゲーム批判もなんのその、「
任天堂 “驚き”を生む方程式」はひたすら「娯楽とは何か」を追求してきた
任天堂についての一冊。ここではべつに、ゲームが人に与える影響なんてものは何も語られない。ただ純粋に面白いゲームを発売すればお客さんは喜んでくれるという状況で
任天堂がどのようにしてゲームを作ってきたかが語られる。↑の二冊はまるで放っておけば世界はテレビとゲームに犯しつくされてしまうとでもいいたげで、それを受け入れろ派と受け入れるな派でわかれているわけだが、そもそも勝手に消滅しかかっているのが今のアニメやゲームなわけで。結局人が何を求めているのかと言えば、凄くシンプルに「面白いもの」なんですよね。昔の人たちが難しい文学を読んでいたのは、それしかなかったからですよ。もし仮にそれで思考力がついていたとしたら、それはなんというか、ただ単にラッキーな時代だったんでしょうね。そこに良いとか、悪いとか、そういうことはないと思うのですよ
「面白いもの」とは何なのかと言えば、「驚き」なわけです。一体自分がどんな時に「おもしろい!」と感じるかなーと考えてもらえれば分かると思うのですが、「こんなものがあったのか!!」とか「こんなことができたのか!!」みたいな、「驚き」があった時なのじゃないかと思います。あるいはずっと準備してきた文化祭が始まった時とか、それもどの程度成功するか、失敗するかわからないが故の「驚き」ですよね。そんな驚きを多く人々に提供してきた任天堂ですが、驚きを生みだすことに方程式があるとすればそれは「人とは違う事をやれ」のひと言に尽きるでしょうね。「驚き」とは、先がどうなるかわからないからこそ、まったく新しいものだからこそ生まれるものですから。誰か自分以外の人と会話をするのは面白いですけれど、それがなぜ面白いのかと言ったら「同じ会話は二度と成立しない」からかなと思うのです。会話は基本的に常に「まったく新しいもの」だから「面白い」。TwitterやMixiなどがはやってきて、任天堂はそういう人to人のサービスと戦っていかなければいけない。だからゲームもネット方面にシフトいます。ドラクエ9とか。