基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

「交換」したいのだ

 漫画評論家のid:izuminoさんの同人誌、「漫画をめくる冒険」の下巻を読んでいてなるほどーと思った部分が夏目房之介さんと泉信行さんの対談の中であったのです。今手元に現物がないからちょっとあやふやですけれども、物語は本来複数人で共有するものであって(元々は語り手が喋りながら聞かせていたのだから)、一冊の本になった漫画という媒体は、基本的には一人で読むことしかできない点で「複数人で共有する」ことを欠落させられているのではないか…とかそんな感じです。だからこそ「マンガ夜話」的な、「マンガを語る場」を持たなければならない、と。かつて物語とはみなで共有するものであった、という前提で考えるならば、今まで色々と疑問だった「なんで面白い作品を人に薦めたくなるんだろう」とか「なんでぼくはブログを書くんだろう」とか、疑問に近づいたような気がするんですね。

 なんでぼくがブログで本の感想日記みたいなものを書くのかといえば、本を読んだり映画を見たりして、何かを受け取ったままだと凄く居心地が悪いからなのですよね。たとえば会話であったら、「ねえ」と話しかければ「なに?」と答えるだけで、コミュニケーションは成立している、言葉の「交換」が成立している。しかしこれが小説だとか漫画だとかになると、基本的に一人で読まなければならないので、読み終わっても一人で自分の中に読んだものが沈殿していく。いやしかしどうなんだろ・・・? 小説を読む行為は作者との対話であるというようなことをちょっと前にTwitterで言いました。文がそこに存在して、その解釈が人の数だけあるならばそういうことになります。そして対話である以上、こちらから、作品に対する働きかけが必須であるはずです。作品が何かを伝えてきて、こちらがそれに答えるのならば「交換」「コミュニケーション」が成立している。まあそれはおいといて・・・。

 あるいは本に限らない。一人で何かやって、何か情報を受け取る。そしたらその情報は、やっぱり溜まっていく。溜まったままだと溢れてしまうので、受け取ったものを別のものに変換して送りだすというのは、「川を水が流れていく」ことのように当然のことなのでは、と思うのです。人間は理由はわからずともずっと昔から「交換」をする生き物ですから。先人から何かを受け取って、それをまた誰かに渡すことによって延々と延々と「交換欲」みたいなものを満たしてきたんじゃあないかと。だからぼくは本を読んだらそれらを「語り合う」ことやブログに書くことによって「交換」あるいは「伝達」しようとしているのだ。そもそも本というのもその成立過程では、確実に何か別のものから伝達されてきた要素をはらんでいる。どこかから伝達されてきた結果なわけで、みゃくみゃくと伝達されてきたものがぼくに伝達されてきたのだったらぼくもやっぱり伝達しなければならない!!!(わけがわからなくなってきた)

Tumblrが「交換欲」を満たしてくれる。

 Tumblrなんてのもぼくはやっていますが、あれも「交換」の究極の形というか、自分が何か情報を貼り付けて流すと、誰かふぉろーしてくれている人がその情報を良いな、と思ったら「Reblog」といって自分の陣地にもそれを流すんですね。これなんかもほとんど無言のコミュニケーションなのですが、しかし誰かが情報を流して、受け取って、受け取ることがそのまま流すことに繋がっていて、ああそうだ、受け取ること=流すこと とイコールで結べてしまうからぼくは最初にTumblrを「交換」の究極の形といったのかな。読んで面白いと思っても、それを誰にも言えないと溜まっていく一方だけれども、それを自分のブログに「何か別の形に変換」して出力するというのは、実は結構ハードルが高いのかもしれない。だけれどもTumblrならば、「面白い」と思ったものを「面白いと思ったままの形」で流せて、それでいて立派に「交換欲」を満たしているところが素晴らしいと思います。といってもぼくTumblrよくわかんなくて「Reblog」しかしたことないんですけれどね。何が言いたいのかよくわかんなくなってしまったけれどもとりあえずこんなところで。