約30年前の村上龍と村上春樹の対談本なのですが、これが二人の若さゆえの暴走感を頑張って言葉にしようとしている感じがあって、べらぼうに面白かったです。二人ともまだ若く、村上春樹氏も未だにジャズ喫茶を経営している時の話ですね。「書くことだけで食っていく自信がない」なんて言っていたりして、現在から考えると「おいおいw」と思ってしまいますが、「村上春樹にも若いころがあった」という当たり前の事実を再確認しました。そんな二人の対談本ですけれども、現在絶版中。今や大物の二人ですし、出せば売れるでしょうから、出さない理由はあまりにもあけすけに話し過ぎていて、二人共がこの本が残ることを望まなかったからじゃあないかと余計な推測をしてしまいます。それぐらいあっけからんと色々なこと(村上龍氏はヘロインを打った話までしていた)を話していて、暴露本的な面白さがありました。
なぜ小説を書くのか
龍 結局、小説ってのは、なんか自分の足りない部分を助けるとか、自分を解放するために書くんじゃないかと思うのですよ。(中略)
春樹 僕はね、小説書くのは自己解放だとは思わない。自己変革だと思うわけ。小説書くことで、自分が変わっていくインパクトっていうか、刺激になればね、小説ってそういうもんじゃないかなっていう気がするけど。(中略)どっちにしても、自己表現じゃない。
龍 そう、自己表現じゃないと思うなあ。むしろ自己表現できないからね、ああいうのを描くような気もするけどね。
春樹 だけど、自己表現のための小説書く人が多すぎると僕は思うけどね。ただ、小説書いても解放されないでしょう、なかなか。
龍 されないね(笑)。僕は、自分が変革していくっていう意識はないですけど、妙なことがわかったりしますね、小説書いていくとね。あ、おれってこんな人間なのかなってわかるときありますね。
これについて思ったことは先日ブログにも書いたのでもう書きませんけれども、自己変革だと思う、という村上春樹氏の言葉はよくわかりますな。変わっていく感覚というのは確かにある。龍氏がいう、「あ、おれってこんな人間なのかなってわかるとき」の感覚は、私小説なんて数えるほどしか書いたことが無いのでわからないのですが、友人の小説を読んでいる時にこの感覚を覚えることがあります。
三作目で飛べ
龍 ブローティガンに会ったら、いいにくいこというんですよ。ぼくが、二作目書いたよ、っていったら、彼がいうのね。要するに、二作目は一作目で修得した技術とイマジネーションで書ける。「きみ、問題は三作目だよ」って(笑)。
(中略)
龍 また、ブローティガンに在って、「三作目書いてる」っていったら、彼は「うまく書くな」っていうんですよね。ウエルはよくない、オネストに書け、って。「きみは一作目、成功したか」っていうから「成功した」と。「二作目は?」「だいたい、好意的に迎えられた」と答えたら、「きみは、自分の運と才能をのぼりつめた高い崖の上にいる。そこから先は、もう飛ばなきゃならない。落ちてもいいんだ」──ぼくは、すごく勇気づけられて、書きつづけたんですよ。
たぶんね、三作目というのがその作家の方向性を決めてしまうんじゃないかな、と思うのですよ。そして三作目で周囲の人間、読者からもですけれども、「ああ、こういうのを書く人なのね」と認識されてしまったら、もうなかなかそれ以外のものを書くことが難しくなってしまうんじゃないかなぁ。レールにのってしまう、というところもありますしね。崖の上にいるのだから、もうそこから上にはいけないわけですよ。違う崖を登っていかないと。
傲慢さ
春樹 ぼくもね、まわりの人が、それ読んで感想をいろいろいってくれるわけ。でもやっぱり少しずつそれぞれにずれてるわけね。それは、しかたないといえばしかたないんですよ。こっちの思っていること全部、雄弁に伝えきれてないわけだから、こっちの責任でもあるし、しかたないと思うんだけど。で、あまり、聞きたくないというと傲慢だけど、聞いてもしかたないという気がするのね。つらいな、悪いな、書くのってイヤダな、って思っちゃうよ。でも、きっと、僕と同じように感じてくれる人がどこかに一人くらいはいるにちがいないと思ってやっぱり書くのね。僕、店やってるでしょう、そうするとね、住人来ても、店を気に入ってくれる人は一人か二人だものね。あとは対して気に入らないわけ。どうでもいいと思う人が五、六人かな。あとの三、四人はやっぱり、いやな店だ、もう来るもんかと思うわけ。これはね、別に不自然でも何でもないわけで、十人に一人、また来ようかなと思った人がまた来てくれれば、店というのは、商売がじゅうぶん成り立っていくわけです。店を始めてね、いちばんに感激したのはそれですよね。十人に一人でいいじゃないかってさ。これは感動ですよ。小説もそれと同じなんじゃないかなと思う。書けば書くほどさ、悪意を持つ層が拡がっていくわけじゃない。気に入ってくれる人が十人に一人ずつ拡がっていくと、それ以上に悪意を持つ人間が十人に三人、四人と拡がっていく。だから文章を描くってことはある意味では、むなしいし、辛いですよね。通りのまん中でズボンを脱ぐような感じがするよね。
読む人が多くなればなるほど、批判的な意見というのも増えていき、批判の声が大きくても、その何分の一かの人が支持していれば作品というのは生き残っていけるんですよね。
ワンワン、ニャンニャン
春樹 ぼくは書いてる途中で悪態ばかりつくのね。ちきしょうとか、くそとかさあ。で、女房おこるわけ、聞くに堪えないってさ(笑)。もう小説書くの止して平凡な夫に戻りなさいってさ。それでさ、何と言えばいいのかって聞いたらね、ちきしょうというときはワンワンといいなさい、くそっていうときはニャンニャンていいなさいって(笑)。やったんだよ、ばかばかしいよ(笑)。
悪態なんていうものは、聞いている方もキツイものですし、言っている方だって割と気持ちがいいもんじゃあないんじゃないかと思うんですよね。人が言っていてもキツイのに、そんなものが自分の口から出てくるなんて信じられない、と私なんか思いますけどね。中学生ぐらいの頃はみんな何かって言うとすぐ「死ね」だとかいっていたけれど、アレは信じられなかったなあ。本気だとか本気じゃないとか関係なしに、そんな言葉使いたくないです。だからワンワン、というのは、凄くいいんじゃないかなと、冗談じゃなしに思ったりしますよ。
僕にとっての名文とは
春樹 この前非常に、感動といったらおかしいけどね、感心した話があってね。どっかの編集の人に聞いたんだけど、大江さんというのはものすごくわかりにくい文章書くじゃない。大江健三郎さん。でも、あの人はね、だれにでもわかる文章を書きたいと思って書いているらしいのね。たとえば土方にでも、バアのホステスにでも、だれにでも本当にわかるやさしい文章を書きたいと思って努力してるんだって。で、そう思えば思うほどああいう文章になっちゃうんだって(笑)。それ聞いてぼくはすごく感激したのね。そういうところって、やっぱり大江さんて偉いんだなあって思うのね。ぼくはああいう文章を好きで書いているのかと思ったら、べつにそうでもないみたいですね。最近いちばん感動した話です。そりゃね、多くの人に読まれる文章というのは多かれ少なかれ名文ですよ。ただ自分にあった酒や自分にあった音楽があるように、自分にとっての名文というものはある。僕にとっての名文というのは恥を知っている文章、志のある文章、少し自虐、自嘲気味ではあっても、心が外に向けて開かれている文章……
大江さんの話はなんかグっときますね。ジレンマがあって。もちろんそれだけではないんでしょうが。あと、自分にあった名文、というのは正直ぴんときませんでした。名文というのは、誰にとっても名文なのじゃあないかなあと思っていたので。まあでも確かに、嗜好的な部分のえり好みは確かにあるわけです。名文って何でしょうね、今「私にとっての名文」の条件を挙げてみようかな、と思ったんですが、恥ずかしくなってしまってやめました。なんか、あまりにも見えてこない。ひと言でいえば「リズムの良い文章」になるのでしょうが、透明感のある、とか美しい、とか言いだすときりがないし恥ずかしい!
まだまだ書きたい事はあるのですが、そんなに書いたって、ねえ、何がしたいんだよ、という気もします。まあすでにしているんですけど。何してんだよ、って。この本を読むと、やっぱりイメージが変わりますね。村上龍と村上春樹の。特にこの本には、「何かが始まりつつある感覚」というのが濃密に現れていて、言ってみれば革命前夜ですよ。そういう興奮があった。実際に二人はこの後、お互いがお互いに凄く有名になって、それこそ革命のようなことをやっていくのですからね。そしてそういった、「何か新しいことが始まりつつある感覚」というのは、いいものなんですよね。
- 作者: 村上龍,村上春樹
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