文体とは何だろうか。と言われても困ってしまうが。地球とは何だろうか、と書くような理不尽さがある。どのようにでも答えられる、という意味で。こんな事を書いたのも、『NOVA3』に収録されている円城塔の『犀が通る』を読んだからである。一行目からぐいっと引き寄せられる文章だ。『道端でそんなに揉まれているからには犬ではないかなと思う。猫ではないし人ではあるまい。』
なんだなんだと読み進めるうちに読むのがやめられなくなってくる。この部分だけ読んでも何がなんだかわからない。読み進んでいく。この繰り返し。凄いと思ったのは、ぐいぐい引きつけておきながら、唐突に文章が方向転換をするところである。これは、円城塔先生の真骨頂だと勝手に思っている。たとえば冒頭のすぐ後にくるこんなところ。
笑い死に、ぐったいする体を抱えて、冷たさを増していく四肢を一心不乱にただひたすらに揉み続け、皮膚が破れて肉が裂け、現れる骨に歯を撫でさすり、擽り続ける決意はあるのだろうか。腸食い破り、周囲に散らばる全てを舐め去り清め、擽る相手を亡くしてようやく立ち去るを得る勇気はお前にはあるまい。
自分にもない。
思うのは鷲尾祐二という。祐二というからには次男であるに相違ない。まさか長男ということはなく、三男四男ということもない。
この唐突な「自分にもない」そして「思うのは鷲尾祐二という。」に繋がる切り返しを読んだ時、なんだかよくわからないがとにかく「すげえ!」と思うのである。25メートルプールの端へ辿り着き、華麗なターンを決めた人を見たか、自分で決めたか、そのような感動がある。同時に今文章を模写してすげえ、と思ったのが、その言葉遣いである。擽りをあえて漢字にするところもそうだが、舐め去り清め、などいったいどこから出てきた流れなのだろう。
もう一つ書いていて気が付いたことがある。書く内容が、文章があっちへふらふらこっちへふらふらと揺れ動くのだ。「祐二というからには次男であるに相違ない。まさか長男ということはなく、三男四男ということもない。」がそういう揺れ動いている部分であると思う。力が抜けている、といってもいいかもしれない。それでいて文章としてのキレはまったく衰えていない。
どこで読んだか忘れたけれど、文学者であり大学の先生であり合気道でもかなりの腕前である内田樹先生が、宮本武蔵を題材としたバガボンドのワンシーンを解説していたことがある。それは主人公の武蔵が、雪だるま? だったかな、に向かって、棒きれを振り下ろすシーンなのだが、その時の武蔵の体制が、腰を据えて安定した状態から繰り出されたものではなく、非常に不安定な体制から放たれたものであると言っていたのだった。
ここからはもう完全に忘れてしまって憶測だが、武道においてはもっとも最善の攻撃方法というのは、完全に無我の境地に至り、脱力しきって相手へと攻撃を飛ばすことなのだ。相手を攻撃するぞ、と気合を入れると、達人の世界ではその気を読まれてしまうのである。だから達人はその手の気をまったく発しない。
そして不安定な体制の武蔵は、不安定でいながら棒の重みを足した身体の重さ、長さで身体の正中線を芯に捉えており、雪だるまに棒きれが到達した瞬間にすべてのパワーがそこに凝縮されるような、凄まじい姿勢だと言うのである。それは恐らく不安定な状態からしか生まれなかった。
長くなったが、円城塔先生の文章もこれと似たところがあるのではないか、と思った。ゆらゆらと揺れ、不安定な内容から突然斬りこんでくる。斬りこまれると、読んでいるだけなのにゾっとする。さっきツイッターで「円城塔先生の文体は読むと感染る。読んだ後に文章を書こうとすると円城塔っぽくなる。」と書いたが、子どもが剣豪にあこがれてちゃんばらをする感覚なのかもしれない。そんな、現代の剣豪を円城塔先生の文体にみてしまう(褒めすぎかもしれない)。