先日出たばかりのサンデル教授『それをお金で買いますか――市場主義の限界』では市場主義の限界について語っていた。たとえばノーベル賞はお金では買えない。お金でノーベル賞を買った人を、誰も他のノーベル賞受賞者とは同列に扱わない。名誉は金では買えないから、金は名誉の価値を貶めるからだ。
市場主義はだいたいのことを効率化させてくれるが、上記の例のように当てはまらない、もしくは金が絡むことによって腐敗する例が存在する。今やあらゆるものがお金で取引されるようになっているが、「市場主義の適用範囲」を個々人が理解するのは、我々がどのような社会を作っていきたいのかという問いにつながってくる。
『それをお金で買いますか――市場主義の限界』で不満だったのは、「議論が欠けている」とだけ言っていることだ。まるで議論することそのものが目的のようであり、議論さえすれば丸く治まるといっているようであるが、どうにも納得いかない。功利主義者とリバタリアンが顔を付き合わせて、社会政策について議論したところで何らかの合意が引き出せるだろうか? もちろん人による。でも難しいだろう。
じゃあどうしたらいいんだろう? と考えていたらそういえば最近この本を読んだなと思い出した。まさに本書は「限界」について語っており、しかも「多種多様な価値観を持った人間たちの議論」形式で進められている。不合理性・不自由生・不条理性についてそれぞれ一章ずつ議論しており、様々な主義主張を持った人達がその「折り合いのつかなさ」を見せてくれる。
第一章 行為の限界
第二章 意志の限界
第三章 存在の限界
行為の限界では我々の行動がいかに制限されているかが明かされる。たとえばレモンを頭の中に思い浮かべただけで唾液の分泌量が増すように、自分の身体のことが自分で制御できる範囲はかなり限られている。強い恋愛感情が持続するのはだいたい12ヶ月から18ヶ月と、感情や判断も身体や脳の仕組みによって自然と強制されているものなのだ。
意志の限界では人間の意志がどの程度まで適用できるのかについて。たとえば江戸時代と原題では人の美的感覚、モテる顔といったものも違うと思われるが、それらは「当時の環境」によって決定されている。誰かの顔を好きになるのは、本当に自分で意志したものなのだろうか? 微妙なところだろう。
存在の限界ではそのまま、直球で「死」が語られる。人間の死の限界はどこにあるのか。しかしそもそも死は定義が難しい。脳が死んだら死んでいるのか? はたまた身体も脳も死んでも、その人のことを覚えて語り継いでいく人がいる限りその人は死んでいないのか? キリストは死んだのか? はたまた遺伝子が残していければ生きているといえるのか?
どれも意見が大きく別れるところだ。一応、『感性の限界』で最終的なオチというか主柱は「人間の自由意志の是非」になると思うけれど、突き詰めて考えていくと僕達が主体的に生きていると思っている現実はただそう思い込んでいるだけの、頭の中で作り上げた物語のようなものだという気がしてくる。でも物語だっていいじゃないか、可愛い(かどうかは知らない)女の子とデートが出来るんだったら気分だって浮かび上がるぜ。
この「限界シリーズ」は、理性の限界、知性の限界、感性の限界と三部作で完結した。著者の方はお疲れ様です。読み終えて改めて思うのは、限界について議論する意味は僕達がいかにして他者と自分との折り合いをつけて生きていくかという問題に対して答を持つことである。人間には限界がある。理性も知性も感性も、適用範囲が限界を超えると壊れるものがある。
限界について、各種立場から全てが共通した一致は得られないだろう。が、各々が部分部分でも納得できる、これ以上は分かり合えない、といったところまでの議論を続けていくのが楽しいだろうとこのわいわいがやがや楽しそうに議論している本書を読んで思った。
感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性 (講談社現代新書)
- 作者: 高橋昌一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/04/18
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