基本読書

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それをお金で買いますか――市場主義の限界

『これからの正義の話をしよう』のマイケル・サンデル教授の新刊。原題はWhat Money Cant't Buy The Moral Limits of Marketsで、タイトル通り。お金で買えないものは何か、そして全ての物に値段がつけられるようになっていく市場原理主義現代社会において市場の限界を探ろうとする。相変わらず冗長で、ひどくかったるいが書いてあることは面白いから良い。

今や世の中だいたいどんな物でもお金で買えるようになっている。あるいはお金に換算されようとしている。たとえばある学校では本を一冊読むと二ドルもらえる。とある学校では、生徒の成績を上げると教師の査定もあがる。自分の身体のスペースに刺青で広告を入れるとお金がもらえ、絶滅の危機に瀕したクロサイを打つ権利は15万ドルで買うことが出来る。

サンデル教授はこのような「すべてが売り物となる社会に向かっている」ことを心配する理由を二つあげている。一つは不平等にかかわるもの、もう一つは腐敗にかかわること。不平等は当然で、すべてに金が必要となったら何らかの理由で貧しい人は生きていくのが大変である。一方腐敗と本書で言っているのは、僕は最後までどうにも納得いかなかったのだが「生きていくうえで大切なものに値段をつけると、それが腐敗してしまうおそれがある」ということだ。

本書では色々な具体例をあげてこの腐敗を説明する。それを読むとまあよくわかる。たとえばノーベル賞をお金で買ったとしたらどうだろうか? これは周りの人間は誰も本物のノーベル賞受賞者と同じには扱わないだろう。ノーベル賞は名誉を表すものだからだ。このようなものを本書では「善」と呼び「市場原理が入り込むことによって腐敗するもの」として定義する。

僕はだいたいリバタリアンなので市場が自由になると効率的な分配という点で非常に良いことがいっぱいおこることを信じている。が、一方でそのような効率性を増すことがあまりよくない結果をもたらすこともある。他の例で言うと教育なんかはそうだろうか。本書に書かれていた例ではないが、『ヤバイ経済学』の中で紹介されていたはなしにこんなものがある。

シカゴ教育委員会は1996年に一発勝負のテストを導入した。点の低かった学校は観察処分を受け、学校は閉鎖され、職員は当然だがクビになる。同時にソーシャル・プロモーションと呼ばれる精度も廃止され、進級するためには基礎学力テストというマークシート式の標準テストで足切り以上の点を出さなければならなくなった。

これの結果はひどく単純で、学生は勉強するようにはならなかった。元々学生にはテストに対してインチキをする動機を色々持っていたが、今度は先生自体がインチキをする動機を持つようになる。先生は生徒にテストの答をさりげなく教えるし、テストの内容を改ざんするようになった。当たり前の話だ。これはよく出来る人に報酬を与える方式でも同じ結果が出ることはいうまでもない。

自分の体を広告として刺青を入れ、物のように扱うことによって自身の身体の道徳的な「善」が損なわれるという議論もある。教育なんかは即座に「ああ、だめだよね」と納得が得られると思うが、自分の身体を広告として扱うのは「善」なのか、そうでないかの線引きが難しい。本書では何度も「善」という言葉が出てきて、結局のところ結論は「われわれは、社会的刊行の意味と、それらが体現する善と、この善が商業化によって堕落するかどうかをそれぞれのケースごとに問わねばならない」という。

そのような善は意見を一致させることが難しいからだ。でも本書は「市場や商業は善の性質を変えてしまう」ことを理解し、市場の限界を意識しながら適用するべき場所とすべきでない場所を選択する、そしてその為に熟議をすべきだとする立場だ。視点としては面白い。面白いけどそれ、オチが『これからの正義の話をしよう』と一緒なんだけど……。

ていうかね、ただ熟議が欠けているっていったって無駄だと僕は思うんですよ。だってリバタリアン功利主義者がいくら話あったって共通の一致なんか出てこないんだから。だからさ、本当に本当の意味で「市場主義の限界を意識しながら適用範囲を熟議すべきだ」っていうんだったら、リバタリアン功利主義者の熟議の方法「どうやって最善かは知らないけど信頼出来る答を出すか」ってのを考えないといけないじゃん。

熟議が欠かせないとかいって締めているけど、問題はその先でしょ、その熟議をどうすんのかを考えなきゃ面白くないじゃんっていうことが言いたい。でもまあ、問題点としてはすごくおもしろかったです。読んでおくと色々考える種になりそうな感じ。

それをお金で買いますか――市場主義の限界

それをお金で買いますか――市場主義の限界