文庫化されたので読んでみたら、これが創作と受け手側が交わった時、どのように「快楽が発生するのか」といった分析や、フィクションが他者に伝わるとはどういうことかを分析した「記述と物語の関係」、また「物語はどの程度必要なのか?」といった原理的な問いが語られていて、その内容がいちいち腑に落ちた。佐藤亜紀さん自身現役の小説家でありながらこういうことが書けるのは凄いなあ。
文学が何を伝えようとしているのかと、それを端的に表せば音楽で言うところのリズム、響き、旋律、あるいは反復により現れる全体の構造、そうした「形」であると本書ではいいます(後述しますが、記述の運動といいます)。『文学も例外ではありません。人に何か伝えようとするなら、わかりやすく箇条書きしてチラシにでも書いて配れば充分でしょう(それさえも文学であり得るとは思いますが)』
これはたしかにいつも考えていることだ。「社会へ訴えたい」ことがあるんだったらそのままノンフィクションで書けばいいわけであって、フィクションで書く理由などない。物語を伝えればいいんだったら、プロットを渡せばいい。これを勘違いするのは主に読者側。これをわざわざ物語にするのはいわば言葉に出来ない感覚、登場人物たちの繋がり、変化、情景、そうしたものを効果的に配置された時の感覚を伝達するためでしょう。
受け手に対しても読み手に対しても、従って、まず要求されるのは表面に留まる強さです。作品の表面を理解することなしに意味や内容で即席に理解したふりをすることを拒否する強さです。芸術作品を、あくまで知覚が受け取る組織化された刺激として、眺め倒し、聴き倒し、読み倒すものとすること、表面に溺れ、表面に死に、あくまで知覚のロジックにのみ忠実であること、深層の誘惑を拒み、そこにあるとされる意味が知覚の捉えたものを否定したり、ねじ曲げたりするのを拒み通すこと。芸術を最も倫理的たらしめるのはこういう姿勢です。「意図」や「意味」とだらしなくひと繋がりになった作品の倫理性や深さなど、ほんの一瞬のものに過ぎません。
ここで言われているような「読み」はいわば一番芸術作品への真摯な、真剣な付き合い方のひとつなんでしょうね。大抵の人は(僕も含めて)表面に留まる強さなどは持っておらず、表面を撫でてなんとなくわかったような、わかっていないような気分になって去っていくだけでしょう。小説である以上誰もが同じ受け取り方をすることはあり得ず、深く読み込む人もいれば、まるで見当違いの受け取り方をする人もいる。「表面に留まる」などと突然言われてもよくわからないと思うので、以下回りくどく解説します。
作品の中に思想を読み取ったり、「これは◯◯に抗議して書かれたものだ!」という読みをするのは自由ですが、それは作品の枠、広がりをひとつに制限するものでしょう。たとえば本書の中ではドストエフスキーの作品を、何か崇高なものを書いたと考え(これは確かにその通り)、思想という1点に注目して、登場人物が語る思想それぞれに感銘を受け、線をひいて真っ黒にするような読み方、その時の昂揚を、嘘だとは言わないから何に一番よく似ているか考えてみてくださいといいます。
僕はカラマーゾフの兄弟を読んだ時「これはジャンプ漫画だ!」と思いました。とにかくテンションが高く、お互いがお互いの考えをぶつけあい、殴り合い、感情のボルテージをガシガシあげて場面を盛り上げて、良いどころで毎回引きになるのは、子どもの時から大好きだったジャンプ漫画のやり方そのものでした。
で、佐藤亜紀さんは当然「これはジャンプ漫画だ!」などとは言わず(笑)、メロドラマではないかというんですね。本書で語られるところのメロドラマの目的は、最大限の振幅。『氷を割って噴火する火山、とか、聖なる大悪人、とか、天上に登らんとして地獄に堕ちる、とか、普通なら、バカか、で済まされてしまいかねない両極端を取り込んで、極端なコントラストと起伏を可能にするのがメロドラマだ、とも言えます』*1
ドストエフスキー作品における神をめぐる対話、思想は「思想を語るために存在している」のではなく、その対話の中に対峙する二人の人物、上がっていくテンション、まるでジャンプ漫画でライバルが技を交わし合うような興奮、ぎりぎりの攻防に起こる緊張と、どちらかが折れたと知った時の解放といった「盛り上がり」を産むのです。こうしたものを本書では「物語」ではなく「記述」の運動と呼んでいます。
本書では何度も「物語」と区別して「記述」が存在するのだという言い方をしていて、最初はえ、それって何が違うの? と戸惑います。しかしいくつも例をあげて説明してくれるので、区別がつくようになってくる。たとえば映画『サイン』は意味不明なプロットだけれども、映像としては遮られた視界、心理的な圧迫が続く画面から最終的に窓の外へと「解放」されることがフィクションにおける最もポピュラーな苦難からの解放、ひとつの「記述」の運動にあたると語られます。
先のドストエフスキーにおける「思想」が物語をメロドラマの材料として扱われているように、『サイン』では、いわば全プロットが最終的に画面、音からくる心理的圧迫からの解放感を与えるようにつくられているのです。こうした状況の描写や、思想の対峙によって盛り上がるコントラストのような、プロットだけでは表現できないものこそが、作品が知覚に与える刺激であって、ここに留まって、この刺激は何なのかと考えることこそがフィクションを読むことなのだと本書は教えてくれます。
話を戻せば、ドストエフスキーが書くような小説を「思想を書いたものだ」とか「政治信条を書いたものだ」として読むのは、「読みの広がりを楽しむ」という点からみれば、貧しい読み方といえるでしょう。だからそれとは反対のことを言っている本書が教えてくれるのは「如何に読みを広げるのか」です。
「読む」行為を僕らは日常的に行なっているので、ついつい忘れがちになるのですが、実はその本質的なところを、あまり理解してはいないのかもしれません。特に小説の読み方なんて、普通に生きてたら、誰にも教えてもらえないわけです。「読め」とは言われますけど。今まではなかったけれど、これこそが「小説の読み方の教科書」といえるだろうな、と読んでいて思いました。
画一的な読み方を教えるものではなく、どれだけ広く、楽しく読み込むのかを教えるという意味で。同じ一冊を読むんだったら、より楽しく、より深く読んだ方が、幸せなはず。
- 作者: 佐藤亜紀
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2012/11/07
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