僕はとにかく片付けが出来ない人間だった。小学生の時、僕の机の上にはものが出しっぱなしで、机の中にもゴミだかガラクタだかよくわからないものが散乱していて通知表にはいつもその事が書かれていた。今でも読んだ本はそのへんに出しっぱなしだし、ブログを書くために本棚から引っ張ってきた本が山となって積まれたり地面に置かれていたりする。もちろん本棚だって高さは揃ってないし続き物がそこらじゅうに散らばっていたりする。雑然とした状況だ。
片付けろといわれ本は本棚に著者順などで並べろと言われることもあるが、とてもそんな事をしようと思わない。なぜ一回一回出したものを片づけたり、意味もなく本を著者順に並べなくちゃいけない? ことここにいたって僕が気付いたのは、片付けができないわけではなく片付けをする理由がないと思っていることだった。片付けをする理由がないんだったら片付けをするわけがない。
どういうことかといえば、たとえば本を出してくる。本を出してきたとすれば、その本はそこに移動してくるだけの理由があったことになる。理由があったのならそれはそのままそこに置かれているべきだ。僕はそう考えているし、本にかぎらず薬だろうが鞄だろうが基本的に「移動したものは移動しただけの理由がある」と思っているのでそれをわざわざ元にあった場所に戻すこともしない。
結果的に雑然として探したいものがどこにあるのかわからなくなってくることもある。しかしそうなったら、その時はじめて片付ければいいじゃないか。とにかく片付けをし、整理整頓をするというのは無条件にいいことのように考えられているがそんなことはない。物事を元に戻すにはそれ相応のエネルギーやコストがかかるのだから。
たとえば朝活とか、整理術なんかを声高に提唱する人間がいるが無理なレールを自分にしいてもつかれるだけだし、整理整頓をしてそれだけの利益をあげられる保証もない。勉強を一日1時間絶対やるときっちり決めて、くもなくやり通せるならそれは最高だろうけれど疲れ果て身体に鞭打ってまでやり、結局続けられなくなったら意味が無い。
だったらだらしなくたって出来たり出来なかったりを繰り返しながら前に進んだほうがよほど良い。片付けだろうが仕事だろうがきっちりやるにはコストがかかるということを重々承知しておかなければ無駄な時間や無駄な結果を最終的に引き起こすことになってしまうことになるだろう。