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辞書を編む (光文社新書)

最近洋書をよく読む関係で辞書にはお世話になっている。

そうでなくとも辞書のお世話になったことがないという方はなかなかいないだろう。紙だか電子だかの違いはあれど、僕らは辞書を詠む前に、辞書が存在するというそれ事態について、「世の中には自分の知らない大量の言葉が、概念が、名前が、あるようだ」ということを知る。ひとつの辞書はひとつの言葉でできた世界なのだろう。

本書は『三省堂国語辞典(サンコク)』の編纂に関わった著者による、辞書の創造記。普段あまり意識することもないけれど、いったいどのようにして辞書が創られていくのかを解説していってくれるのだが、どれも聞いたことがない新鮮な情報でおもしろい。大まかな流れは以下のとおり

第1章 【編集方針】――雑誌・新聞・単行本をどのように作るかという方針
第2章 【用例採集】――そのことばが実際に使われた例を集める
第3章 【取捨選択】――必要なものだけを選び取り、必要でないものを捨てる
第4章 【語釈】――語句の解釈・説明をする
第5章 【手入れ】――なおす、手を加える
第6章 【これからの国語辞典】――将来の国語辞典をどうするか/どうなるか考える

まず最初に辞書をどのようにつくっていくのかを決め、実際にその言葉が使われている現場を集め、必要なものを取捨選択し、それについての解釈、説明を書き、推敲を行い、未来へとつなげていく。用例採集などかなり楽しそうだ。たとえばNHK黒澤明全作品一挙放送をするときけば珍しい言葉を片っ端からメモしながら観る!

な、なんてうらやましいんだ……。うらやまし……うらやましいが、一方でむすめが見ているハートキャッチプリキュアのアニメから言葉を採集していたりして、辞書編纂に関わるということは私生活などというものはなくなってしまうものなのだろうかと悲しく思わなくもない。

娘がアニメを見ているときは、さすがにじゃまはしません。でも、たまに、

 コフレは立ち向かった! 私を守るため、一生懸命! たとえ戦う力はなくても、コフレはあんんたなんかより1億万倍強い!

こんなせりふを耳にすると、「おっ、1億万倍か」などとつぶやき、横合いからチャプターボタンを押します。「億万」という単位は、数学的にはありえませんが、「億万長者」「何億万年」などという表現は日本語にあります。このアニメの例も、やはり貴重な一例です。

観ていないからわからないのだが、こんな盛り上がっていそうな場面を目の前にして「おお、珍しい言葉だ」としか思えないとしたら(そもそも言葉だけに注目していたら黒澤明さくひんだって楽しめるかどうか……)かわいそうである。もっともすべてを貫く一つの切り口を持っているというのは、人生を楽しむ上では最強の矛なのかもしれないけれど。

もちろんアニメや映画だけから語句を採集するのではなく、街を散策して新しい言葉を探す、人の使っている言葉を聞くなどといったこともする。言葉狩りなどというと別の意味になってしまうが、言葉の採集と考えるとなかなか面白い旅だなあ。今だって日々新しい言語がうまれて、既存の言葉の意味だってどんどん変わっているのだから。激おこぷんぷん丸みたいに。

知られざる辞書編纂プロセスというのは集め終わった後も面白い。たとえば言葉の手入れで、「右」をどう説明すればいいのか。「簡単じゃん、右手側だよ」とすぐに思ってしまうが、右手側には右が含まれてしまっている。過去には「この辞書を開いた時の偶数ページ側」や「東側」などと書いていたそうだが、今では紙の辞書で読まない人もいるわけで使えなかったりする。

右というひどく簡単な言葉を説明するのも、誰にでも、どんな状況でも通用するように書くのはたいへんむずかしいのだ。でも「右」については、著者が考えだした説明がその壁を乗り越えていて感動してしまった。『みぎ[右](名)①横に<広がる/ならぶ≧もののうち、一方のがわをさすことば。「一」の字では、書きおわりのほう。「リ」の字では、線の長いほう。』

なるほど。リや一をつかって、線の長い方とか書き終わりといった表現を使って右を説明している。これなんかほんの一行二行の短い説明だが、苦心惨憺して一つ一つ創りあげられていることがわかるだろう。世の中にはウィキペディアのような常にうつろいつづける真理の暫定版を更新し続ける辞書もあるが、一度完全に固定してしまって世界をがっしりつくり上げる辞書もある。

本書は無数に存在する辞書のうちの、ほんのひとつの例をとりあげたものだけどそこには言葉へのこだわりと、そのこだわりを普遍的なものにするための徹底した過程がある。言葉を積み上げていく世界を創ることであって、最初にぼんやりと考えていた辞書作成工程よりもずっと刺激的で、創造的な内容であった。

辞書を編む (光文社新書)

辞書を編む (光文社新書)