スティーブン・スピルバーグの映画。映画館にて視聴。それほど期待して見に行ったわけではない上に、ずっとカメラも切り替わらず、場面も大きくうつることなくしゃべり続けている箇所などが退屈でうとうとしてしまったけれど、思い返してみるといいところはいっぱいあったのでもっと真剣に観ておけばよかった*1。
動きのない画面の中で、何度も何度も繰り返しアメリカの歴史を象徴とするエピソード(たとえ話)が語られ、言葉が物語を多次元的に表現する。明暗のイメージが素敵であり、法律家ならでわの言葉の定義を厳密に解釈した論理的な台詞回しは素晴らしい。またゆっくりとしたリンカーンの動きは、のろのろと動かない状況とあいまって印象的だった。
リンカーンの生涯でいえば、その後半戦にあたる。一度大統領に当選し、その時に次々と南部の州が連邦政府からの離脱を表明し、南北戦争に突入し、多数の死者が出る。本作で書かれるのはその4年続いた戦争が終わる間近、1865年にリンカーンが奴隷解放の憲法修正(修正第十三条)を議会に通過させるまでが主な物語になっている。
通すためには議会の3分の2の賛成が必要だが、リンカーンが所属する共和党すべてをたしても20票足りない。その票をいかにして集めるのかをメインプロットとし、その脇で軍隊に入りたいという息子やヒステリックな妻との確執などが描かれていく。
個人的に良かったのはリンカーンの政治家としての描写。言葉を丁寧に扱い、決して自分自身が不利にならないように振舞ったり、かと思えば息子や他人にたいして自分の権力を目的達成のために誇示してみsたりする。「目的のためなら小手先の言葉の技術でいくらでも翻弄してやる」という意志がそこらじゅうから感じ取れる。そしてそれこそが民主主義における政治家なのだろう。
けっきょく、言葉がうまいやつ/思いを伝えられるヤツが勝つ。本作はゲティスバーグの演説について兵隊と語り合うところから始まり、最後には大統領第二次就任演説でしめくくられる。どれもリンカーンが実際に語った言葉であり、凄まじく鼓舞するような内容だ
。映像なのだが、言葉の選択が非常に面白い作品である。
歴史のリンカーンについて
映画ではしっかりとそこまで書かれるわけだが、その描写が挟まった後にリンカーンの演説の様子が描かれる。この演説は65年の3月4日にリンカーンが第二期目の大統領就任した際の演説になる。これは非常に短い内容になっていて、最初に戦争に対する南北の態度立場を解雇し、黒人奴隷の問題と戦争の関係に一言ふれ、内乱のすえ犠牲をはらって奴隷の解放が実現されたことにたいして神の摂理に触れて終わる。
なんびとに対しても悪意をいただく、すべての人に慈愛をもって、神がわれらに示した給う正義に堅く立ち、われらの着手した事業を感性するために、努力をいたそうではありませんか。国民の創痍を包み、戦闘に加わり倒れた者、その寡婦、その孤児を援助し、いたわるために、わが国民の内に、またすべての諸国民との間に、正しい恒久的な平和をもたらし、これを助長するために、あらゆる努力をいたそうではありませんか。
上記の一部が映画の最後でリンカーンがかたった部分である(そのはず、あんまり精確に覚えてないが)。そしてこの台詞の前が長々と神の摂理について触れた部分になる。全能の神は彼自らの目的をもっており、「この世は躓物あるによりて禍害なるかな。躓物は必ず来たらん。されど躓物を来たらす人は禍害なるかな」とマタイからひき、ようは内乱はつまずきであって我々にできることはただこれが速やかに過ぎ去ることを祈るしか無いという。
その後にくるのが上記の慈愛についての言葉なのだ。多くの人間が死んだ後の戦争にしては寛大かつ謙遜な歴史観であって、戦争をつまずきだったと率直に言える人間であったわけだ。演説の内容は宗教性に満ちているが、決して南部との戦いを「聖戦」と呼ぶようなことはなかった。正義が自分の側にだけあるとは認識していなかったのだろう。この後もアメリカは幾度も戦争というつまずきに遭遇するわけであって、なんとも汎用性の高い言葉であるともいえる。
最終的にリンカーンが奴隷解放の父のような立場になるが、最初リンカーンは奴隷の解放まで意図していたわけではなかった。戦争のはじめには奴隷の解放は目的に含まれては居なかった。この映画の中では「戦争がおわって連邦がひとつになるんだったら奴隷制度なんかひとまず保留でいいじゃないか」という人間が大勢でてくるが、まったく同じ事をリンカーンも最初はいっていたのである。
この戦争における自分の至上目的は、連邦を救うことであって、奴隷制を救うことでもあるいは滅ぼすことでもない。奴隷を一人も自由にせずに連邦を救うことができるなら、そうするだろうし、またしもすべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるというなら、そうするであろう。奴隷の一部を自由にし、他はそのままにしておくことによって連邦が救えるならば、そうするだろう。
『リンカーン―アメリカ民主政治の神話 』より引用。リンカーンは本作の中で黒人に「あなたは我々を受け入れてくれるか」みたいなことを問われて、じゃっかん止まった後自分個人のこととは引き離して国民全体のこととして我々はそれを目指して行かなければいけないとはぐらかしたが(ようは自分にゃ無理だとは言わなかった)リンカーンは基本的に「黒人と白人は違うものであり私も悩んでいる」とする立場だった。
ようはなにが言いたいのかといえば「映画だけ観るとリンカーンは黒人を一刻も早く解放したい人間である」かのようにみえるが、実際は本作で説得させられる側の人間のように、リンカーンも補償による漸次的解放を目指していたが、いつのまにやら連邦維持のためにはじまった戦争が、道義目的のためのものにすりかわってしまっただけだった。
連邦の再統一という第一の目的に加え、圧力から奴隷解放という第二の目的が生まれ、そしてその後に黒人と白人の平等という第三の目的が生まれていったのである。もちろんどこまでがリンカーンの本音で、どこまでが政治的なトークなのかはわからないのだけど、リンカーンは流れだけ観ると「予期せぬ形で結果的に奴隷解放の父になった人」のように見える。
南北戦争がなぜ起こったのかという簡単そうなお題についてさえいくらでも歴史解釈がありえるわけであって、それがリンカーンともあればいくらでも解釈は生まれてこよう。リンカーンが死んだ後に何人もリンカーンと関係を持ったという女性が現れたそうだし、リンカーンを暗殺した人間も目撃証言がそこらじゅうであったという。
本作は歴史に対するスピルバーグ流解釈で、リンカーンはその世界でめちゃくちゃかっこうよくとられていた。ゆっくり出口に歩いて行く様とか、激して怒る場面とか、ゆっくりと子どもと遊びながら憲法修正が通ったかを待っている場面とか、とにかく印象的な場面が多い。理性で持って信念を押し通そうとするその姿は、とにかく、かっこうよかったのだ。
- 作者: エイブラハム・リンカーン,高木八尺,斎藤光
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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*1:しかし、詳細な19世紀の政治活劇が楽しめればいいんだろうが、見る人によってはたいへん退屈な話だろう。