森博嗣著であるヴォイド・シェイパから始まるシリーズの最新刊、『スカル・ブレーカ』の引用本(章の頭ごとに引用されるネタ本)だったので(この葉隠入門が、ではなく葉隠そのものが)読んでみたのですが、これがまたとんでもなくすごい。武士が小学生の頃から好きで(嫌な小学生だな)特に維新前後の話を小説で何百冊も読んだり、新渡戸稲造の武士道に感激したりしていたのですけど、なぜこれを読まなかったのか……。
本書は葉隠「入門」の名の通り、葉隠のすべてを読むわけではなく、著者である三島由紀夫がその魅力を存分に語ったのち、主要な部分の現代語訳が後半からは載っているといった構成になっている。その死に様からして三島由紀夫がいかにこの葉隠を内面化していたかもわかるが、その筆致は確かに葉隠という書物に対しての、並々ならぬ情熱と、その一冊の本から、できるだけたくさんのことを引き出そうとする試行錯誤に満ちている。
わたしが戦争中から「葉隠」に感じていたものは、かえってその時代になってありありとほんとうの意味を示しはじめた。これは自由を説いた書物なのである。これは情熱を説いた書物なのである。「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という有名な一句以外に「葉隠」をよく読んだことのない人は、いまだに、この本に忌わしいファナティックなイメージを持っている。しかし、「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」というその一句自体が、この本全体を象徴する逆説なのである。わたしはそこに、この本から生きる力を与えられる最大の理由を見いだした。
日本人として日本に暮らしていると、未だにどこかで「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という一句を耳にするのではないか。それを聞いて何を思うのかはたぶん人それぞれだが、「え、何いってんの笑」ぐらいの反応が一般的かもしれない。僕も何度も聞いたことのある一句だが、別にそんなに深刻に考えることもなく「そうかー」ぐらいの緩い受け止め方しかしていなかった。
それも当然というか、明らかに武士とは生きている世界が違う。恥をかかされたらすぐ斬り合いがはじまって、負けたら死ぬわ、なんか恥かいたらすぐ腹を切って死にたがるイメージがある武士だが、「なにかあったら死ぬ」という前提を持っている武士と現代人はあきらかに立っている場所が違う。
そしてだからこそ「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」なのかとおもいきやそのすぐ裏に「人間の一生はわずかで、好きな事をして暮らすべきだ。夢の間の世の中で、嫌いなことばっかりして苦しいことをして暮らすのは愚かだ。」というようなことを突然言い出すのである。また死ぬか生きるかの選択の時に、すぐに死ぬ方を選ぶべきだとすすめながらも一方では、いつも十五年先を考えていなければならないといったこともいう。
しかし葉隠というのは、その原著がまず圧倒的にすごい。なにせしょっぱなから「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬほうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。」とくる。凄まじい切れ味というか、もう最初の一太刀で絶命しているところに二の矢三の矢が間髪いれずに死体に打ち込まれているようなものである(矢なのか太刀なのか)。
「別に仔細なし。胸すわって進むなり。」とかもーずがーんって感じですよな(何がだ)。正直言ってこんなに切れ味のいい言葉には出会ったことがない。一読するところ何を言っているのかわからないというか、「なんでそんな死ぬことばっかり考えなきゃいけないわけ??」と疑問に思う。ただし次に連なる言葉を読んでいくとだいたい次のような意味になる。
二者択一を迫られた時、絶対に正しい方を選ぶのは難しい。人は誰でも死ぬより生きるほうがいいからだ。そうなると、生きる方に理屈が多くつくことになる。生きる方を選んだとして、それがもし失敗に終わってなお生きているとすれば、腰抜けとそしられることになる。しかし死を選んでさえいれば、犬死、気違いだと言われようが、恥にはならない。これこそが武士の本質なのだ。『毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居るときは、武道に自由を得、一生越度なく、家職を仕果すべきなり。』
もっとも、葉隠の生みの親は六十一歳で畳の上で死んでいるのだが。「死ぬべきか生きるべきか」を迷うようなことがなければ、それもありなのだろう。問題は「死ぬべきか生きるべきか」迷った時で、恥を何よりも恐れる武士は、生きて恥になる可能性があるぐらいだったら「死んどけ!! 死ねば恥にならんから!!」という随分強引な論理だったようだ。
あとはやっぱり『葉隠』といえばあの部分もとりあげなければなるまい。『「『武士道は死狂ひなり。一人の殺害を数十人して仕かぬるもの。』と直茂公仰せられ候。本気にては大業はならず、気違ひになりて死狂ひするまでなり。又武士道に於て分別出来れば、はや後るるなり。忠も考も入らず、武士道に於ては死狂ひなり。この内に忠考はおのづから籠るべし」』
シグルイで一躍有名になった一句だと思う。死に狂いでかかれば一人を倒すのに数十人かかることもあるし、だいたい思慮が出ると勝負のときに相手に遅れをとるから死に狂いでやれ、その中に忠も考も宿るという教えで、割ともっともなことを言っているのだが……「武士道は死狂ひなり。」この文章のリズムはやはりすごい。
えーこんな恐ろしいことばっかり言っているのかよーと思いきや、その他の部分が予想外にまともというか、すごくいいことを言っているのでこれもまたびっくりだ。たとえば欠伸を止める方法が書いてあったり、批判をするときは、相手が受け入れられるか否かをよくみて、相手と親しくなって、こちらのいうことを信用する状態にしむけ、趣味の面から入り、言い方、時節、すべて見極め、自分の失敗などを話して相手に余計なことをいわなくても自分で思い当たらせるのがいいんだよと凄く優しいことをいっていたりする。
翌日のことは前もって考え、先に起こることはすべて準備しておき、勇気をもって着手せよと述べる。まあ、そういう人生訓も良い。この時代にあっては素晴らしいといえる。「苦しいことなんかせずに、好きな事をやろうぜ。俺は寝るのが好きだ」というところもあって、その自由な精神が素晴らしい。でもやっぱり、全編を通してどきどきしてすごいこと言っているなこの人……と思うのは、武士の精神に触れた時であり、おそらく剣の道を追求するうえで身につけた思想に触れる時である。
ある人が喧嘩の仕返しをしないために恥をかいたことがある。仕返しの方法といったものは、踏み込んで斬り殺されるまでやることに尽きる。ここまでやれば恥にはならない。うまくやりとげようと思うから、かえって間に合わないことになるのだ。むこうはおおぜいだからこれはとてもたいへんなことだ、などといっているうちに時間がたってしまい、ついに終わりにしてしまう相談にでもなるのが落ちだ。たとえ相手がなん千人いたとしても、片っぱしからなで斬りにしようと決心して立ちむかうことで、ことの決着がつき。それでたぶんうまくいくものだ。
現代で生きる視点からしてみると、こんな異常な「武士」などという集団がいた時代が本当にあったとはとても信じられない気持ちがする。何もかもが今と違いすぎる。それでも死と向き合って、終わりのない自分の道を追求するその姿勢には学ぶところが多い。それに、やはりこれだけ力のある文章は(文体からいっても)今はもう読めないだろう。
- 作者: 三島由紀夫
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