古典を詠む。『自殺について』と表題にもついているぐらいなので、さぞや凄まじい理論か理屈が展開されるであろうと思っていたのだが、実際書かれているのは10ページほどの短い話であった。内容も大半はキリスト教が自殺を悪いものと考えることに対する考察になっており、「自殺とは何か」「人はどういう時に自殺をするのか」といった内容を期待していたので少ししょんぼり気味。
他四篇もしかし、直接的に自殺を扱っているわけではないものの生きることと死ぬことについての論である。しかしこれがまたなんていうか、厭世的な話。人間が物を認識する手段は空間と時間の二つしかなく、ある個体の死とは確かに朽ちていって物として死に意識とは脳内の信号が行き交う表象なのだからこれは消える。
しかしそれは単に時間という認識の中での死であり、別の形式から見れば残るものがある。それが意志であるという。個体は物自体ではなく、時間と空間の中に生まれたひとつの表象にすぎない。その本質はまた別にあり、時間の経過という短いタームの中でたしかに「表象としての個体」は死んでくことにあるが、本質は時間に囚われないので一切である。
適当に要約してしまったがまあだいたいこんな話しだろう。死んだことがないので間違っているともあっているともわからないが人間の認識手段が空間と時間の二つに制限されているのは確かで、物それ自体を見ているわけではないというのはなるほどカントである。
一般的にいって人は生命の恐怖が死の恐怖を上回った時に自殺をするだろうというところぐらいかな。自殺についての考察で面白かったのは。まあそうだよねという。他にもいろいろあるだろう。心中がある。抗議としての自殺もあるだろう。自分の人生、ここで頂点だ、と思ったら綺麗な物語として、作品として綺麗なところで終わらせることだってできる。
あるいはショーペンハウエルがいうように「死んでも本質は残るのだろうか」といったことを確認するために死ぬことだってあるだろう。ただその場合そういう問いをする認識自体が消えてしまうので問題である。たぶんその本質とやらは、認識を持たないもののことだろうから。すべての認識を持っているのかもしれないけど。
あとはそうだなあ、身体に悪いものを食べるのは緩慢な自殺だろうか。毎日マクドナルドを食べ続けるのは、たぶん自殺だろう。煙草を吸うのだって同じこと。緩慢に、部分的に自分を殺していくわけだ。しかしこれは「快楽」を求めて結果的に死が近づいているわけであってなんとも前向きな自殺といえるかもしれない。
そうはいったら自分の人生に綺麗に終わりをつけようというのも大概前向きな自殺だ。前向きな自殺と後ろ向きな自殺がある。生きることの恐怖が死の恐怖を上回って死ぬのは当然後者だ。どうせ死ぬならば出来れば前者で死にたいものだなあ。
何もしなくても身体は死んでいくがこれは自殺ではないだろう。細胞に殺されるわけだから、何を自分と捉えるのかにもよるが、他殺といえるかもしれない。寿命は時間に殺されると考えると時間による殺人だ。もっとも細胞の劣化サイクルまで自分と捉えるとこれもまた自殺になってしまうが。ようは「自分の意志に反して死ぬかどうか」が自殺か他殺かだろうか?
たとえば死にたい時に、拳銃を友人に渡して一思いにやってくれ、というのは現象的には他殺でも実質的には自殺だろう。自分で自分を殺すことが自殺なのではなくて、「死のうとする意志を持つこと」こそが自殺といえるのではないか? 煙草を吸ったり毎日マクドナルドを食べるのはだから「それが死に近づいていくこと」を知らないでやっているとしたら、自殺とは言わない
傍から見たら緩慢な自殺でも、結局は無知に殺されるわけで他殺といえるかもしれない。まあこんなのはただ言葉を転がして遊んでいるだけなのでたいして意味があることではないのだけど。それにしても人がぽんぽんと自殺していく社会の中で現代人は自殺とどう向き合っているんだろうね(自分もそうなのだが)。
- 作者: ショウペンハウエル,Arthur Schopenhauer,斎藤信治
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