基本読書

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霧に橋を架ける (創元海外SF叢書) by キジ・ジョンスン

SFというよりはファンタジーを主体にした短篇集。短いものはほんの数ページで、表題作だけ特別に長く100ページなので、ショートショート集のような趣きがある。短い話にもかかわらず強烈な「感覚」を感じさせる作品が多い。それは違和感であったり、いらつきであったり、悲しみであったり、痛みであったり、またはそれらを複雑に混ぜあわせたカクテルのようなものでもあるが、長さにかかわらず各短編はそれぞれ強い印象を残すだろう。作風としてはメタファーを多様し、描写を重ねていく村上春樹のようなタイプを想像してもらえるとわかりやすいか。それだけ多くの人間に、様々な捉え方と印象を与える作風である。

著者はキジ・ジョンスンで1960年生まれの女性。たまにめちゃくちゃ生々しい女性の性の描写があって一瞬で「この生々しさは男には書けねええええええ」と驚くことが女性作家の場合はあるが、本書も読んでいてその生々しさに一瞬で「ああ。これは女性作家だろうな」と気づくことの出来る箇所がいくつかある。たとえばエイリアンと人間の女性が言葉も持たずに千のやり方でファックする掌編。これ、単純に肉体的なファックではなくインとアウトという抽象的な表現によって語られていくのがとても不思議な感覚を与えている。そもそも相手は二足歩行動物でもないし、既存の生物とはかけ離れている存在なのでそんな生物との抽象的なファックを書くという難事なのだが、描写がうますぎてまるで違和感がない。

 それぞれがインとアウトをもつ。彼女のインは普通の目耳鼻口膣尻。アウトも普通──指手足舌。腕。脚。ほかのものに挿しこめるものだ。
 エイリアンはヒューマノイドではない。二足動物ではない。絨毛がある。骨はないか、あるとしても彼女には感じられない。筋肉か、筋肉かもしれないものはリング状であって、筋束ではない。皮膚は透明で、黄昏色の粘液に薄く覆われ、鼻水の味がする。音はいっさいたてない。彼女はそれが冬の濡れた落ち葉のような匂いがすると思うが、しばらくすると、その匂いも、落ち葉も、冬のことも思いだせなくなる。
 それのインとアウトは変化する。黒い切れ込みや、たまに膨張する消えないこぶが複数あるが、つねにあたらしいアウトを盛りあげ、あたらしいインをへこませる。たやすく裂け、そしてくっつく。
 それは千通りに彼女を貫く。彼女もそれを貫く。

なんかこう、まあこれは極端なたとえ話をわざわざ持ってくるが、口に棒状のものをガシガシ突っ込まれた時の嫌悪感みたいなものを、男だって想像すれば描けるはずだが、あまりそういうものをわざわざ書こうとはしないだろうというか。想像力というものがある以上、「男にしか書けない」とか「女にしか書けない」といった描写はあまりないと思う。でも「そもそも性別の差、それによる体験と普段の思考の向き」によって「わざわざ考えてもみないところ、想像力を振り向けない所」、デッドスポットみたいなものが生まれることはある。もちろんこれだって意識すれば超えられるところだけど。本作の場合はあまり適切なたとえじゃなかったような気もするが、このあとの描写もなかなかゾクゾクとさせてくれる。

いくつかの特徴があるので、その特徴にそって話をしていこう。1.動物をメインに据えた短編が多いこと。2.喪失を描くこと。3.メタファーを多用すること。

1.動物をメインに据えた短編が多いことについて。たとえば最初の収録作『26モンキーズ、そして時の裂け目』はタイトルにもある通り、猿共の物語だ。二十六匹の猿がいて、猿共はバスタブの中に入ると消える。しかしあとからばらばらだったり、多少まとまって戻ってくる。バスタブ消失マジックはショーとして実演されており、非常に高い人気を誇っているようだ(何しろほんとに消えているんだから)。ショーを行うエイミーすら、なぜバスタブに入った猿が消え、戻ってくるのかはわからない。何しろ相手はただのエテ公だし、聞いたところで答えてくれるわけではない。いろいろ推測し、理由を頭のなかででっち上げるが、それが実証されることはない。

本作ではこうした「コミュニケーションの不可能性」みたいなことも繰り返し書かれる。エイリアンや動物といった、人間が言葉でコミュニケートできない相手とどうやってコミュニケートするのか、あるいはしないのか。途中の短編では「言葉は失敗する。」という言葉が出てくる。それは作中の作家としての言葉として出てくるのではあるが、この作品集全体を通しても重要な意味を持ってくる。言葉は失敗する、かといって言葉を使わなかった場合は、26モンキーズの時のように、いろいろとあてども無い考えをいだいてループに陥ってしまうこともある。エイリアンを相手にした時には、コミュニケーションをするという感覚がないのかもしれないし、セックスこそがコミュニケーションなのかもしれないし、とにかく悩むことになる。

猿が消える、謎のエイリアンがいる、蜂の流れる川がある……というような不可思議な出来事が特に説明もないまま本作では起こる。多くの場合、そうした事象に理由が与えられることはない。猿はただ消え、エイリアンはいて、蜂は流れる。それはそうした事象なのであって、我々の世界において物が重力にしたがって下に落ちていくように当然のことなのだ。それでもそこで書かれていく問題点はどれも一貫して、我々の身近な物事とつながっている。猿が消える、大切な相手が失われるといった繰り返される「喪失」の描写や、コミュニケーションの不完全性はその最たるものだろう。

生きていて大切な物、相手の喪失を経験しない人間なんていないし、コミュニケーションの不完全性についてもそれに悩まない人はほとんどいないだろう。たとえ言葉の通じる人間相手であっても、行き違うし喧嘩になるし不安になる。かように、全体的になんだかよくわからん世界だが、問題意識はどれも共感しやすく設計されている。特に喪失のモチーフはいい。大切な人やペットと別れるときの感覚というのは、「悲しい」と言葉にしてしまえばひどく簡単な単語に凝縮されてしまうが実際には様々な感情が渦巻き、またそこからの回復や納得も場合や状況によりいくらでもわかれていく。本作はいくつものパターンの喪失を描いており、そのどれもが切実さを伴っている。

メタファーについて。先に紹介した「インとアウト」という呼称でエイリアンとのファックを書いていき、しかし次第に抽象度が増していってインとアウトがより大きな意味を持っていく掌編『スパー』も凄いが、中でも表題作になっている『霧に橋を架ける』は珠玉の出来。だいたい霧ってのがいい装置だよね。「そこに何が潜んでいるかわからないもの」「周りが見えなくなるもの」「死」と如何様にも解釈の余地もあれば、どんなものでも飛び出させることができる、あるいはどんな物でも飛び出すことがあり得ると思い込ませる優良メタファーだ。

本作の主人公は何かが潜んでいるヤバイ霧の川に橋を架けにきた男だが、橋を架けるってのがまたいい。状況を否応なく変動させるもの、「何が潜んでいるかわからないもの」を「無効化」するもの、つまり安定の象徴でもあり、まあ要するにこの短編はメタファーてんこもりなのだ。もちろん小説はメタファーが多くなれば自動的に面白さが増すといった単純な仕組みを持っているわけではないが、キジ・ジョンスンは先に書いたようなメタファーを普遍的な感情に載せて丁寧に書いていく作家なので、感情の動きや切実な問題が自分のことのように捉えられ、有効に物語の面白さに寄与していく。

まあ色々とこざかしいことも書いたが、最初に引用した『スパー』の一節を読んでもらえればわかるように、描写を詩を読むように、絵を楽しむようにして読むだけでも面白い短篇集なので、何も考えずに描写に身を任せればいいような気もする。僕は一度読んだ後なんだか気になって内容を確かめるというよりかは、描写をもう一度堪能するために読み返してしまった。個人的な好みでは『スパー』、『26モンキーズ、そして時の裂け目』、『蜜蜂の川の流れる先で』、『ストーリー・キット』、『霧に橋を架ける』が好きだ(多いな)。こうして並べてみると、どれも共通項こそあれど、まったく違った味を持った短編で改めてへんてこな作家だなと思う。

霧に橋を架ける (創元海外SF叢書)

霧に橋を架ける (創元海外SF叢書)