基本読書

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押井守による縦横無尽の続篇映画語り──『映画の正体 続編の法則』

20年に『押井守の映画50年50本』という、1968年からはじまり1年に1本、「今の押井守にとって、その年を代表する映画」を語る本が刊行された。押井守は今まであらゆる媒体で映画について語っているがこの本は縛りがユニークで、傑作ではなく”お気に入りの映画”を中心に演出・映画論が語られていることもあって、近年の押井本の中でも当たりな一作だった。本作『映画の正体 続編の法則』はその続篇となる。

で、本書自体が続篇なので、シリーズものの映画について語ろう! ということになったようだ。マーベルシリーズを筆頭にゴジラやらトランスフォーマーやら007やら続篇映画は数こそは多々あれど、続篇をテーマにして読みどころのある話が展開するのかいな、と疑問に思いながら読み始めたのだけど、これが『映画50年50本』とは違った様相を呈しておりかなりおもしろい本に仕上がっていた。冒頭の押井語り(『僕は語る気まんまんなのだけどさ、そもそもの問題として続編について語ることに意味なんてあるのかな』)からしてアンストッパブル。企画者はいい仕事をしている。

押井守からして「続篇」を手掛けることの多い監督だ。『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』に続いて『イノセンス』を。『うる星やつら オンリー・ユー』に続いて『ビューティフル・ドリーマー』を。『機動警察パトレイバー the Movie』に続いて『機動警察パトレイバー 2 the Movie』を──と。しかも、見ていればわかるだろうがどれもこれも1と2の間に方向転換を挟んでいる。そんな押井守が「続篇を作ること」に関してどう考えているのか──これはたしかにおもしろい着眼点である。

続篇映画と一言でいっても視点によって求めるものは変わってくる。観客はある意味ハズレがない安牌や前作のキャラクタのその後が気になってくることが多いだろうし、プロデューサーは見積もりが立てやすく安定した興行収入を望む(続篇は前作の7掛けと言われる)。最後に監督は? といえばなかなか難しい話になってくる。

プロデューサー的な観点でみれば2作で終わらずに3作、4作と長期シリーズにさせていきたい。一方でマンネリ化した表現を続ければ表現者としては後退だ。できれば表現的にも攻めて、一方で続篇を求めるファンをも満足させる、そんな両立が可能なのか? 前作がヒットした場合続篇映画監督はそれ以上のものが当然に求められるし、それ以下に終わってしまえば責を一身に負うから、監督からしてみればリスクの高い選択肢だ。一般的に観客はシリーズ物の続篇があまりに前作の雰囲気やキャラクタを壊すのを求めない。監督やプロデューサーはどのような解答を出すのか?

そういう意味では商業映画は常に、表現行為と経済行為という矛盾する2つの要素で成立するんだよね。何をいまさらと思うかもしれないけど、その矛盾が顕在化しやすいのがパート2でありシリーズなんだよ。だからこそ語る価値がある。だけど矛盾する2つの要素のバランスを確かめるために映画館に行くような人間はいないわけだ。映画を商売にしている人間や、映画の正体に近づきたいと思っている人間は別だけど。

と、こんな感じの「はじめに」で始まるわけである。

どんな作品について語っているのか。

具体的にどんな作品について語るのかといえば、007やダイハード、猿の惑星といった続篇映画群の他に、押井守映画語りにおいての常連、リドリー・スコット、デル・トロ、キャメロン、スピルバーグ、宮崎駿あたりは鉄板でいる。宮崎駿は続篇なんてほぼ作ってないだろと思うかもしれないが、「なぜ宮崎駿は続篇を作らない(作れない)のか?」というテーマで語っていて、これがおもしろい。

そうした作品・監督の中でも押井守が最初に語るのはリドリー・スコットだ。リドリー・スコットが手掛けてきた続篇は、『羊たちの沈黙』を引き継いだ『ハンニバル』。自作『エイリアン』の前日譚『プロメテウス』とその続篇『エイリアン:コヴェナント』。その長いキャリアと作品数からしてみれば手掛けた続篇は少ないが、それはなぜなのか。そして、なぜその少ない中であえて手掛けているのが『ブレードランナー』でもなく、『エイリアン』なのか? が中心テーマとなって語られていく。

その語りの中でおもしろいのは、設定的にも舞台的にも一切繋がりがない作品であっても、監督にとってはテーマや手法、俳優の連続性を仕込むことによって、「実質的なパート2作品」となることがあるし、それも続篇映画の一つなのだ──という話にある。たとえばリドリー・スコットでいえばデビュー作『デュエリスト/決闘者』(77)のパート2といえるのが、設定的にも原作的にも繋がりのないがテーマを継続させた『最後の決闘裁判』(19)であるというように。押井守も一般的には失敗作と言われることの多い『天使のたまご』(85)のパート2だといえる作品が存在するという。

押井 この本の答えをいきなり極論すると、映画監督によって新作や次作は、絶えず前作のパート2だとも言える。このことはたぶん誰もが納得するはずだし、少なくとも映画監督だったら同意するはずだよ。ここでやれなかったことを、次でやる。

『エイリアン』に対する『プロメテウス』は長くシリーズが続いた後に出た前日譚ではあるが、これも実質的にはリドリー・スコットの「パート2」なのである。そして、『エイリアン』と『プロメテウス』は何が繋がっていて、他の監督が描き出した『エイリアン2』〜以後の作品とは何が異なるのか。このあたりの語りは正直僕が『プロメテウス』があまりにつまらなくて困惑していたこともあっておもしろかった。

キャメロンやノーラン

別の作品で実質的なパート2を作る監督側の利点としては、前作と比較されないということもある。リドリー・スコットの対比として出されるのがキャメロンだ。彼は自分のテーマがなく、プロデューサー的な視点が強いために「語り残したテーマを語るため」ではなく利益のために『アバター』の続篇を作るはめになったが、大ヒットし自作と比較を避けられず制作もズルズルと遅れている──と語りが繋がっていく。

ノーランは(『インセプション』や『インターステラー』、『TENET』をみればわかるように)一本で完全に閉じている監督で(だから押井守やリドリー・スコットとは異なる監督だ)、ザック・スナイダーは常に収まりきらない情熱、やり残している感が溢れている映画をとり、だからこそ次々に撮ることができるし次作に期待してしまう──と、「続篇映画」のみならず直接的なつながりはない「実質的なパート2映画」までを射程にいれることで、語りの自由度が飛躍的に高まっている。

おわりに

ずっと映画は世界観が一番だ! といってきた押井守が興行的な判断としてはキャラクターで映画を作るしかないと語るようになってたり、押井守の変化を感じる本でもあった。あいかわらず映画を語らせたら誰よりもおもしろい監督である。

個人的に宮崎駿と庵野秀明について語っている章が(なぜ宮崎駿がナウシカ2をできず、庵野秀明もまたやらせてもらえないのかの話とか)おもしろかったので興味があるひとはぜひよんでみてね。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp