これは面白かった。
ただ……表現しづらい面白さだ。面白いのは確かだが、ぼかぁいったいこれのどこにこれほどの感銘をうけたのだろうか、それがいまいちわからない。いや、「どこに」なら正確にわかっていると言えるのかもしれない。本書は職業小説家である石川博品が書き上げたものの出版社からは出版を断られ、結果的に同人小説として発表したものを星海社が拾い上げ文庫として出版しなおした小説作品である。職業作家があえて同人小説として出す以上、しかもそれが最初は出版社から断られた作品とあっては、マーケットを意識しない趣味的な部分が強く押し出されていると考えるのが、本書の内容からいっても妥当だろう。
内容は書名にほとんど現れているが、「四人姉妹」と「百合」である。あともう一個重要な要素があるけれどレベルが跳ね上がるので後述するとしよう。四人姉妹とはあるものの実際の姉妹ではない。架空の高校に存在する架空のクラブのような組織制度”サロン”に集う女子達のおしゃべり関係を指している。本作はそのサロン百合種(ユリシーズ*1)を主軸にした擬似的な四姉妹達を主軸にした物語だ。そして同時に並置されている「百合」という単語が示す通り通常の枠を超えて親密な女子学生共が描かれていく。ただそれは終盤を除けばどろどろしたものでもなければ、リアリスティックなものでもない。
書いているのは男子校出身の男である。男は──とこうやって性別でもって人間を二分割してまとめて語ってしまうのは本来大いなる危険を伴うので多少言葉をにごして「多くの男性は」「いくらかの女性にも」と表現すると、特に若い女性同士の関係性の中に、ある種の幻想を見るものなのではないだろうかと僕は思う。もちろんこの誰もが情報を発信する時代において、女子校の実態など仕入れようと思えばいくらでも耳に入ってくる。それがある種の女子同士の関係性の中に幻想を抱く人間にとっては幻想を破壊するものであることも多い。
だが一方で人間が持つ「幻想の力」はそんな現実なんかには粉砕されえないものである。物語を見よ、ありえないようなハーレムを築き上げる、客観的にみればキチガイとしか思えない男性キャラクターがいる。はたまた目を別方向に向ければ、「そんなん現実に動かへんやろ」「だいたい理屈からいえば巨大人型戦闘ロボなんてありえな──」と理屈こね野郎が否定する幻想にまみれたロボット物、怪獣物が溢れている。つまるところ我々は物語というものに対峙するときに「現実的かどうか」は抜きにして「幻想を幻想として楽しむ」ことのできる高等な能力を持った生物である。*2そして時として幻想としての物語に突き動かされた人間がそれを現実に構築することもまたありえるのである。つまるところ人間の幻想は幻想であるが故に現実にもまた作用する。
さて、そんなわけでこんなわけで、ここにある女子同士の関係性はとても幻想的なものである。女性同士の関係性に清らかなものを求め、きゃっきゃとお互いの距離感をとても近くしてかしましく、お互いがお互いをぽんぽんとさらけ出し、お互いがお互いを素の気持ちからかわいいかわいいと褒め合い、そうした素の露出が往来を増すごとに関係性はより深く、強固になって続いていゆく──もちろん時にはシモネタもいい、あけすけに絡んでいくその様にはいわく言いがたいのだが一つの美しさ、関係性としての理想型(と言い切ってしまってもいいだろう)が存在している。
この関係性の部分は肝であり、やりとりの一つ一つがとても魅力的に描かれていく。たとえば奥手だが黒髪の美人と、やんちゃで天真爛漫で奥手な幼なじみを引っ張っていく活発な美人という「基本形」としての関係だったり、その後輩として入ってくるこちらは甘え上手でつぎつぎと先輩の寵愛をかちとっていくなかなか計算高い妹役に、そのさらに後から入ってくる小動物系のおとなしくだが気難しい芯の強いところもある後輩と「基本形」が他作品と類似していても(たとえばあの有名なけいおんだったり)あとのバリエーションや学年の違いなどでそのやりとりとしてのアウトプットはいくらでも既存の作品と変わってきて面白い部分だ
もちろん女子校という性的な閉鎖環境における女性だけで構築される関係性の在り方、それ自体にも僕は強い魅力を感じる。最初に「語りづらい」と書くはめになったのは、これが欲望の発露、自身が持つ人に開陳したくない幻想としての女性観をさらけ出すことになってしまうからなのかもしれない。もちろん「これこれこういう理由で女子校百合物は素晴らしいんです」といったとして、それは単なる一側面ということにしかならないだろう。あくまでもこの作品としての魅力ということでいえば、そうした女子高生達の美しさ、清らかさの関係性の中に一つの通常ではあり得ない要素が入ってきて象徴的な進展が与えられているところにあると思う。
剃毛
ここまで本作最大の特徴ともいえる点に言及していないが、一貫して描かれていく主題の一つに「剃毛」がある。剃毛。毛を剃る。つるつるに。シチュエーション先行型の作品の常で「理屈は強引かもしれないが、とにかく毛を、自分たちの意志できゃっきゃ言いながら毛を剃りあわせるのだ!!」という著者の強い欲望を感じる。連作短編のように、エピソードが一つ一つ独立して語られていくのだが、剃毛はどんどんエスカレートしていく。最初は一人や二人、次第に十人二十人を巻き込む大騒動に、そして最終的には量的な意味でのインフレは終わり、質的なインフレが起こる。つまり一貫して女性同士の剃毛話をあらゆる側面から書いていく話だともいえる。
この剃毛への異常な執着は「おれは……おれはこれが書きたいんだ!!」「これがおれのワンピースだ!!」とでもいうような、著者の欲望が炸裂しているようにみえる。これが特にうまくもない文章のシロウトが書いたものだったら、欲望が炸裂したおぞましい何かであっさりと終わったのかもしれない。かもしれないが、これを書いたのはいわゆるライトノベルジャンルを主戦場にする職業文筆家の中でもとりわけ文章能力が高いとされる(※客観的な指標は存在しない)石川博品であり、それがたとえ自身の欲望が炸裂したものだったとしても綺麗に整えて大勢が喜ぶ共同幻想へと昇華させられる技術が伴っていた。
話が進むにつれて下の毛が剃られていない女子が減っていき、段々と下の毛を剃るという行為が単なる好奇心、興味本位、成り行きで──という、一時的かつ突発的なおふざけイベントから観念的、象徴的な意味合いとして機能していくようになる。つるっつるこそが、正義で、清く、美しくあるべき姿なのだとでもいうように。髪の毛や眉まで沿ってしまうわけではないから、それはやはり「本当の意味での清らかさへの移行」としての象徴だったり、「大きな精神的変容を遂げること」への象徴だったり、進行していく剃毛という行為自体は無茶苦茶なのだが、さまざまな象徴としての説得力を持って、結果的に美しさを伴って描かれていくようにも思える。
一人、二人の剃毛からはじまって、何十人の剃毛にいたり、そして最終的にはこれまで侵されてこなかった聖域への剃毛へと辿り着く。同時に描かれていくのは現実的な側面としての「関係性の進展(あるいは終わり)」からの「卒業」そして「別れ」だ。いわば剃毛という象徴的なイベントのクライマックスと、四人姉妹の関係性のクライマックスが同時にやってくるので、この場面は相乗効果的に美しい。
何を言っているんだこいつはと思うかもしれないがいや、ええもんなんですよ。
- 作者: 石川博品,まごまご
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/12/11
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログ (1件) を見る