基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

天冥の標VIII ジャイアント・アーク PART2 by 小川一水

天冥の標第一部からここまで、撒かれてきた種がここに来て一斉に芽吹きはじめた──。

天冥の標が出て最初に書かれた時系列までようやく辿り着き、別側面から描いてみせたPART1だが、「その先」が書かれるのがこのPART2になる。もはやことここに至ってネタバレ無しでレビューを書くような真似はしないが(もし未読でこのレビューを読んでいる人間がいるならこの記事を読んでくるが良い⇒全ての力を尽くして天冥の標シリーズをオススメする - 基本読書)今回も読んでいて魂が震えた。イサリの決断と苦悩、ラバーズが模索し続けた「新たなる道」、変容し、多様化しつつある「ヒト」とはいったいなんなのかという問いかけ、そして何より理性でもって痛みを伴う決断をくだすことのできるリーダーとなったエランカという一人の人間──。

一巻から丹念に撒かれてきた種はここにきてその真価を発揮しつつある。中でもやはり特別なのは、作中の主要人物たちがついに至った「自分たちが信じていた世界が根底から崩れ去った」瞬間だろう。「我々の世界がもし、他の生命体によるヴァーチャル上の計算結果にすぎないのだとしたら、それがもし明かされたとしたら」、あるいは「自分が信じている世界がそっくりそのままハリボテの嘘っぱちだったとしたら」、おそらくその時は自分自身の世界像が一瞬にして破壊され、ひっくり返るような衝撃を受けるだろう。SFは……というより物語は、そうした驚きを手を変え品を変え描いてきたものだ。映画でも漫画でも小説でも。

本作の特異性はやはり、我々がその偽りの認識が創りあげられる過程、なぜそんな偽りの認識をでっち上げなければいけなかったのか、そしてそれはどんな危機的な状況で行われたのか。また危機的な状況に至るまでの道筋を、我々は克明に追体験してきている。冥王班が出た時の人類の狂騒を、致命的な病が広がる中なお抵抗し、隔離し、多くの犠牲を出しながら秩序を再編した人類を。その結果として生まれた突発的な事象に巻き込まれただけの無垢な「被害者」と同時に存在しているだけで他者に危害を加える「加害者」、最悪な矛盾を抱えた存在である救世群と健常人類の戦争を、我々はここまで追体験してきている。

第八部PART1で、悟りきったダダーのノルルスカインは次のように語っている。

「メニー・メニー・シープの人々に受け入れられる大きさを、現実は超えているんだ。常人でなくても、たとえ<<海の一統>>であってもムリだろう。また逆に、僕や君のような存在でなく、もっと説得力のある個人が訴えたとしても、やはり無理だろう。」

まあ、そりゃあそうだろうとも思う。生活が多少苦しかろうが、まがりなりにも自分たちは宇宙移民なのだ、拡散というステップを踏まえた拡散人類なのだという誇り。それが根底から突き崩されたばかりか、ヘタしたらこの広い真空が広がっている真っ暗な宇宙の中で「人類が自分たちだけかもしれない」そして「自分たちは今、生身のままで戦車のような大量の別種族からの攻撃を受けている」などと正確に伝えられた日にゃあ、もはや夢も希望もないと諦めてしまっても無理はない。それなら受け入れずに自分の信じる世界を夢見ていた方が幸せに過ごせるだろう。

メイスンは実は自分たちよりよほど繁栄していた知的生命体で、羊達はダダーのノルルスカインとして再降臨し、フェロシアンが攻めかかり、ラバーズは新たな道を模索しこれまで安穏とのんきに復興生活を送ってきた人類の環境は一変してもはや収集がつかなくなっている。本巻はそうした収集不能にまで陥り入り乱れている各勢力図を把握し、何より「私達が認識してきた世界がこれまでと全く異なっているのであれば、実態はなんなのか」を再把握する過程だ。それは当然過去を想起し、2803年の価値観でもって紡ぎ直していく過程になる。

歴史は繰り返すという。人類の脳みそが時代を経るごとに上等なものになっていくわけでもないから、それはある意味では仕方のないことなのかもしれない。しかし人間には過去を理解し、失敗を検討し、別パターンを試すという根本的な知性がある。人類に冥王班が現れてほとんど800年程──人類は新たな選択肢をとることができるのか。8部PART2の総評としては、このように「これまで描かれてきた歴史」と「過去を理解しその先へ進む意志」が共存している「リスタート」に相応しい話だったと思う。

けれども改めて考えると、もうそんな顔をする必要はないはずだ。起きなければいいと思っていたことは、すべて起こってしまったのだから。これから始まるのは、どうしたって、その最悪の事態からの脱出と回復以外ではありえないのだから。*1

被創造物が自分の足で歩み始める時

PART1からの布石が炸裂するのがこのPART2だ。たとえばラゴス等ラバーズ達の「新たな道の模索」についてとか。PART1の時点で、セレスにやってきたラゴスが抱えていた苦悩はいくつも描写されていた。P138、ラゴスの言葉である『『実はそれがずっと前からの課題だ。さっきは余計なお世話だと言ったが……俺は、俺たちの有り様と行き方に、確信が持てないでいる』』に加えてP169、一旋次の言葉

「とぼけるな、俺がこういうことをずっと気にしていたのは知ってるだろう。<<恋人たち>>の在り方についてだ。俺たちは男も女も常に受身で生き、命じられて従うことをどうしても心地よく感じてしまう。しかし人間の中にはあえて強者に逆らい、つらい責めを負うのを覚悟で、わが道を行こうとする者が出る。<<海の一統>>たちのように──」

ラゴスと一旋次の思惑は大筋としては合致していても多少異なるようにも思うが、ラバーズはことここにいたってついに被創造物たる自身の役割を超えて、はじめて自分たちが創造主になろうとしているといえるのかもしれない。当初与えられた自分自身の在り方に異を唱え、新たな道を切り拓、作り出すこと。目的の為に生み出され、その目的を達成するために行う行為はたとえ創造的といえるものであったとしても、それは被創造物の域を出ない。自分自身で自分自身の道を決めることによってはじめて、真の意味で独立した存在と成るのではないか……。

ラゴスと一旋次の思惑が多少異なると書いたのは、一旋次の欲望は「人間の持っているものを自分も持ちたい」に近いものに読める。彼は人間を、海の一統を引き合いに出して自分たちに欠けているものを語る。対するラゴスが持っているヴィジョンは、ラバーズがラバーズとして、「人類とその他種族たちとの、これまでとは違った協調行動をとる為」の「ラバーズの新たな在り方の模索」なのではないか。PART2で明言されているわけではないが、第一部下巻ではエランカの「<<恋人たち>>は何を祈るの? 人間になりたい、とか?」という問いかけに対しては(曖昧に)首を振っている。同時にラゴスは自身と人間の一方的な関係に限界を感じ、同時に表現の面でも限界を感じていることが度々明らかにされている(PART1、P212『自分が表したいものを、このちっぽけな建物があまりにも表し切れていないからだ。』、第一部下巻『俺のものをこの世に表したい。俺の匂いをつけておきたい』)

この作品で何度も出てくる印象的な象徴としては「矛盾」が存在していると思うが(最悪な被害者であると同時に最悪な加害者でもある救世群、人間の為に尽くすようにつくられ、しかし尽くすだけでは人間を堕落させる。)、ラバーズの新しい在り方の模索は歴史を新しい場所へ進めようという強い意志を感じる。ラゴス等ラバーズが、人間のようになった機械ではなく、人間とは別個に創られた機械として新たな道を開拓することを僕は望む。だからこそラゴスが自分の決意をはじめて自分たち以外の「人類」に告げるシーンは、ここにきて新たなラバーズが本当の意味で自立的に立ち上がったのだと腹の底まで染みわたるようなしびれがきた。

「俺たちにとって、人間を肌を重ねることは、栄養剤のように必要なものでもあるんだ。そのままほっといてやってくれ」
「栄養剤? ならあんたはどうなんだ。彼らはほっとくにしても」
カドムが目をやると、「俺は、一方的に与えられる以上の関係を探している」と妙な言い方をした。

この世界の可能性を信じて、それをできるかぎり引き出そうとした集団──。(天冥の標VIII ジャイアント・アーク PART1.P225)

争いは終わらない。救世群はいわばかわいそうな被害者でしかない。突発的に病気にさらされて、ようやく生き延びたと思ったら今度は存在しているだけで人に多大な死を与える凶悪な加害者にさせられている。被害者である、私達は物凄くかわいそうなのだという意識と、しかしそれを慰めいたわってくれる人は周囲からどんどん去っていき、近寄ろうとすれば害を与える矛盾の中にいる。自分たちは受けた被害を報われ、補填されるべきだ、しかし被害は決して報われることはないというこの根本的な構造が彼らを追い込み、戦争という終末状況を引き起こした。

であればこそ、この闘争は終わらない。PART1でミヒルは敵を許すの許さないのは戦いが終わってからの話だとイサリを一蹴する。『戦っている最中には許すことなどできない、終わってからでは意味がない。そんな行いの出番はないのよ』徹底的な好戦論。対するイサリは、組織を率いているわけでもなんでもない。ただの個人、一人の人間として両者の組織にいる個人と対峙している。こちらは一転、徹底的な感情論だ。『ミヒルは間違ってる。でもミヒルを殺したいなんて思わない。それだけなんだよ、なんでわかる人がいないの……?』

このような好戦と非戦の間でボルテージが揺れ動く中、PART2でセアキがラゴスの「協調」という考えを一笑に付す一行を読んだときは、アイネイアの子孫であってもこんな状況じゃあ無理なのか……と残念に思ったものだ。『やつらはアクリラを寄ってたかって引きずっていった。ヒツジを襲うワシみたいに。俺はあれを忘れないぞ*2』「協調」なんて行動を実際に攻め立てられ、仲間を殺された状態で実際にとることは、理性的な人間であっても難しい。我々読者はことの経緯をすべて知っているからつい「協調」を望んでしまう。それこそラゴスが「協調」を考えられるのは、彼が通常の時間軸を飛び越えて多くの終わりなき闘争を見てきたからでしかない。

最初は「ミヒルを殺したいなんて思わない」と言い切っていたイサリまでが「ことここに至ってはもうしょうがない」と言い出すような状況で、読者たる僕は「ああ、もう終わりなんだ……戦争は起こってしまい、どちらかが降伏するか、全滅するまで終わらないんだ。歴史は繰り返す。」と絶望しながら読み進めていった。だからこそ、だからこそエランカがフェロシアンが元は人間だということを聞いた時に即座に「共働を目指したい」と言った時に、人類の可能性、私情から離れ、俯瞰して物事を見ることのできる知性の力を見たような気分になった。

ここにきて人類が持っている理性が!!!!!! 理性が仕事をしたぞ!!!! しかしこんなシーンが実現したのも、環境の要請があったからこそだ。資源はほとんどなくちっぽけな世界において、敵を殲滅しては立ち行かなくなる状況があったこと。冥王班を治療するアテが、過去の経緯から存在していたこと(それにより救世群の危険度は過去より減少している)。その状況下で冷静に、あえて多大なリスクをとることが決断できる指導者がいたこと。その上で、単なる夢物語、実現する道筋のすぐには見えてこない理想でしかないこの計画を、一緒に幻視し支えようとする理解者、有能な側近がいたこと。そして何より彼女にそうした考えを根付かせ、そうとは知れずお互いに影響を与え合っているラゴスがエランカと出会っていたこと。

「でも人間なら──幾百年と決して許さずに憎しみ合う、救われない関係に陥ることがあるにしても──それでも、何かを伝え合うことができる。何かを築くことができるかもしれない」
「閣下!」
詰め寄ったヴィクトリアに振り向いたエランカは、むしろ厳しい眼光を湛えていた。
「私は、究極的には咀嚼者との共働を目指したい。防戦も、攻撃も、謀略も、すべてはそれを終着点として行いたい。なぜかって? それしか行く末がないからよ。私たちのメニー・メニー・シープ──十幾つの都市と水たまりみたいな海しかない、こんなちっぽけな世界を生かしていくためには、敵を殲滅していてはいけないのよ。それでは世界を進められない」

どれか一つが欠けていてもこのシーンにはたどり着けなかっただろう。ばらばらのピースが重ねあってはじめて、この奇跡的に理性が仕事をするシーンを創りあげた。あまりにも理想的な、人類という種に対して楽観的なシーンだ。バカげた理想だ、といってもいいかもしれない。だが小川一水という作家が描いてきたのは常に人類への底抜けの楽観ではなかったか。もちろんこれまでも作中で何度も理性は働いてきた。

PART1でエランカを評してラゴスは次のように語っている。『ある時代の一握りの人々。この世界の可能性を信じて、それをできるかぎり引き出そうとした集団──。』アイネイア、ミゲラ、ハン、ベル、サンドラといった最初期のスカウトに連なる系譜の姿をエランカの中に見た。ただ、彼らはその能力を持ってしても大戦を防止することは出来ず、人類という命脈を僅かに保つ一方的な防戦に使用することしかできなかった。エランカが目指すのは新たなリスタートにしてその先ではなかろうか。

 だが、しかし、それもまた表面的な見方のひとつにすぎなかった。
 ベンクトがエランカから感じ取ったのは、ただの希望ではなかった。それに似たものならライサや他の多くの支配者も与えてくれた。そもそも安楽な服従そのものが<<恋人たち>>の希望だった。
 エランカが示すものはそうではなかった。そのことは突然訪れた決定的な瞬間にわかった。(中略)
 「エランカ」
 それで、彼は手を伸ばし、女の手を取ったのだった。
 彼女と、彼女が引き連れてきた荒々しくも清らかな風のような、自由を受け入れるために。

エランカはラゴスにとって自由の象徴だった。これまで何百年も繰り返してきた事とはまったく別の道を行く者。あるいはこれまで来た道、長年の停滞に至った人類の歴史を先へ進める者として。ラゴスは彼女に感化され、自身の新たな行方を探し始めた。そしてエランカもまたラゴスの影響を受けている。だからこそ離れていてお互いがお互いを見つめ合っていなくとも、向いている方向は同じなのだ。

他、細々としたこと

テンション高く書き付けてきたが他にもいろいろあった。明確に問題としてあげられるようになった「ヒト概念の多様化」とか。もともと海の一統などヒトの定義は変節していたわけで、「ヒト」であることにどれだけの意味があるのかはよくわからなくなっていたが。ついにセアキ君も半人間みたいになってしまったし、エランカは第一部の頃、俺の子を産んでくれというラゴスに対してつくってやると応えているし。ラゴスたちも機械だけど新たな道を歩みだしている。そして何よりフェロシアンと非感染者である人間の、初めてかもしれない親密な身体的接触も行われた。こっちはこっちで感動的な場面でしたね。

先に書いたように根本的にヤマアラシのジレンマに陥っている(相手に近づきたくても、その行為が相手を傷つけてしまう)救世群という根の深い問題に対してのある種の解答のようにも思える。ヒト概念の多様化、そして「違ってしまった」ヒトを、ヒトは愛し、許せるのか。次回の副題が「ヒトであるヒトとないヒトと」というのはそのあたりに切り込んでくるのではないだろうか。そして、さらにその先へも。

「攻め滅ぼすことなしの拡散、共拡散は可能なのか? 今のところオムニフロラは否定しています。オムニフロラを駆動する最適戦略、いえ、準完完全戦略はそのような拡散と共存しません。<<酸素いらず>>がそれを可能とするものなら、是が非でも知りたいのです」

生命の拡散戦略として何百万もの時を経て、争いも和解も新たなパターンを経験し尽くしてきた生命体が複数いるこの広い広い宇宙だ。宇宙という長い川の中であらゆる種族がその道をわかち、流れてきた。宇宙生命史とでも呼べるようなこの一大叙事詩に今更「救世群とソレ以外の人類は和解し、お互いを許し合い、幸せに暮らしました」なんて結論がつくとも思えない。それはこれまで繰り返されてきたことの一つの変奏でしかない。なればこそ今後の物語は……オムニフロラからダダーのノルルスカイン、人類からラバーズまであらゆる種を巻き込んだ、宇宙生命史に残る新たなシステム可能性の創設に向かうのかもしれない。

天冥の標を読むと、小説の可能性というのはまだまだ広いものだなと思い知らされる。小説の可能性というか、人間の想像力の広さにか。想像したこともない傑作。次号を座して待て。

天冥の標VIII  ジャイアント・アーク PART2 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標VIII ジャイアント・アーク PART2 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標VIII ジャイアント・アークPART1 (ハヤカワ文庫JA)

天冥の標VIII ジャイアント・アークPART1 (ハヤカワ文庫JA)

*1:PART2 P165

*2:PART2. P225