基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

第40回日本SF大賞を受賞した《天冥の標》が2巻まで無料公開されているから全力でオススメする。

天冥の標Ⅰ メニー・メニー・シープ(上)

天冥の標Ⅰ メニー・メニー・シープ(上)

2020年、第40回の日本SF大賞(日本のSF賞。小説以外の媒体も対象)を小川一水《天冥の標》と酉島伝法『宿借りの星』が受賞した(対象期間は2019年)。どちらも別の角度から現代日本SFの豊穣さを示す作品なのだけれども、今この《天冥の標》全10巻のうち、第2巻までが05/06まで各電子書籍サイトで無料になっている。

期間限定の無料でその後読めなくなるケースではなく、一度落としたらその後ずっと読めるはずなので、ぜひすぐには読まなくとも手に入れておいてもらいたい。SFというのは、小説というのは、ここまでのことを描くことができるのか、と打ち震えるような作品だ。全10巻とはいうものの、1巻は上・下巻。6巻は3分冊されているなどして、計17巻の大長篇である。その巻の中にはパンデミックSFもあれば艦隊戦をメインとしたスペース・オペラもあり、至高のセックスをテーマにしたエロティックな巻もあれば5万人で『蝿の王』をやるような壮大な社会実験めいた巻もある。

長い時代が描かれていく中で、人物は次々入れ替わっていくが、そこで描かれていくのは受け継がれていく血、拡張されたヒト、この宇宙そのものの壮大なスケールの行末だ。17巻は長いと思うかもしれないが、1巻が刊行されてから最終巻が刊行されるまでの10年は、この先地球は、人類は、宇宙はどうなってしまうのか……!? とどきどきしっぱなしで、ひたすらに楽しい思い出として刻みこまれている。今から(未読の人は)その展開を一気に駆け抜けることができるというのは、羨ましいことだ。

天冥の標Ⅱ 救世群

天冥の標Ⅱ 救世群

天冥の標Ⅱ 救世群

というわけで、ざっと2巻までを中心に紹介してみようかと思うのだが、本作はcovid-19によって人類が右往左往している現状においては特別な意味を持っている作品だ。何しろ、このシリーズは数百年に渡る時間スケールの世界を描き出しているが、その中心に置かれているテーマは「感染症と差別」なのだ。

物語の時系列的に最初になる第二巻『天冥の標Ⅱ 救世群』は、201X年、致死率90%を超える奇病が世界中に蔓延した地球を舞台に、国立感染症研究所に勤める児玉圭吾とその同僚矢来華奈子の奮闘が描かれていく。後に冥王班と呼ばれるこの病には、初期にはまったく治療手段がなく、有効といえる対策は隔離しかない。

回復してもウイルスは身体にとどまり続けるため、一度かかったが最後、患者の社会関係は根こそぎ破壊されて、人類は非染者と感染者が、恨みと恐怖によって対立していくことになる。冥王班の患者は増え続ける。感染し続ける以上、どこかに隔離しなければならない。だが、どこに? 原発や軍事基地を立てようとすると必ず現地から反対運動が巻き起こるように、患者たちはどこへいこうとも強烈な迫害、敵意、そして区別にさらされることになる。彼らは、社会から切り離されている。

地域住民を守るために患者群を排撃する――プラスの仲間たちを守るためにマイナスの人間を締め出す――きれいな世の中を守るために汚いものを封じこめる――それのどこが悪い? 人間は昔からそうしてきた。当然の、必要な行いだ。パソコンを開けば、無名の人々のそういった露骨な声をいくらでも目にすることができた。そんな声は無視すればいいのだし、そうするしかないだろう、と言う人もいたが、施設に入った患者群にとっては、ネットは現実社会と同じほど大事な活動の場だった。そこにそのような声があふれ返っていることは、無視できるはずもなかった。*1

原因はウイルスであって、悪いのは冥王班の患者ではない。特定の人たちに恨んだり敵意を向ける意味などどこにもない。ではなぜ差別が蔓延するのかといえば、それはやはり、人間が人間であるからだ、としか言いようがないのだろう。そもそもの生物学的な機構として埋め込まれてい、自然の進化の理であり、冥王班や今回の件に限らず、太古の昔から今にいたるまで、致命的な感染症がもたらす光景は重なり合う。

であれば、人間は、人間であるかぎり歴史を繰り返すことしかできないのか。恨みをを乗り越えることは──できないのか? この後数百年にわたって「ヒト」の物語が紡がれていくにあたって、この問いかけは繰り返されていくことになる。だが、この2巻の時点でも、それを乗り越えられるかもしれないと予感させる萌芽はある。第一号患者檜沢千茅という普通の少女が、無感染者の紀ノ川青葉と「普通の友達」になっていく過程。大きな流れに抗い、一人の人間として千茅と向き合おうとする児玉。

壁を乗り越えられる人間は、たしかに存在する。本シリーズは、そうした人たちの物語でもある。

天冥の標Ⅰ メニー・メニー・シープ

天冥の標Ⅰ メニー・メニー・シープ(下)

天冥の標Ⅰ メニー・メニー・シープ(下)

1巻は西暦2800年代を舞台にしており、2巻から描かれた状況からはるか未来になっている。惑星ハーブCに存在する植民地、メニー・メニー・シープを舞台とし、医師セアキ・カドムや《海の一統》宗家の跡取りアクリラ・アウレーリアらが、街に蔓延する凶悪な致死率を持つ謎の疾病、鱗を持つ謎の生物との接触、植民地の臨時総督によって行われる電力規制など数々の不穏な事態に立ち向かっていく。

読む順番としては2巻とこちら、好きな方からで問題ない。この《天冥の標》の枠組みを示す巻であり、2巻以降、どのようなルートをたどってこの状況にたどりつくのか? というアンカーを打ち込む巻である。人間の奴隷として使役される謎の生物《石工》、性愛用アンドロイド《恋人たち》、特殊な身体構造を持ち海で活動できる《海の一統》と、SFギミック満載で、本書を読んでから2巻を読んだ人は「いったいどうやってこんな世界にたどり着くんだ……?」と巨大な疑問を浮かべるだろう。

全体の枠組みを作る巻とはいえ、長年に渡って平和で、不自由なことや違和感があっても「まだ、最悪ではないから」といって、破綻を見て見ぬふりをし続けてきた人々の、政治と反乱の物語でもある。当初は、同じくそうした状態に甘んじていた議員の一人、エランカ・キドゥルーの、これまでの後悔と覚醒のシーンはたまらない。

『決められてしまった。想像力というものを働かせないまま、誰も関与していないような空気のなかで、極めて重大な結果を引き起こすかもしれないルールが決められてしまった。』『いや、決めたのだ。自分が。』『私が世界を握るわ』

おわりに

3巻はスペース・オペラ、4巻は性愛、5巻は宇宙農家、とそれぞれの巻で人の普遍的な営みがSF的に拡張し、展開されていくことになる。次第に「ヒト」の定義も単純な人類からアンドロイドやそれ以外の者たちにまで広がっていって、ヒトが、宇宙が広がっていく。ド真ん中、ド直球にSFとがっつり組み合ったシリーズであり、今こうしてつらつらと読み返してみてもその巨大さにめまいがするようだ。

べつに、いま読まなくてもいい。10年、20年後でもかまわない。でも、いつかふっと暇になって、何かをじっくりと楽しみたい時がきたら、僕がこう書いていたことを思い出してもらえたら幸いである。《天冥の標》は、傑作だ。

《天冥の標》合本版

《天冥の標》合本版

*1:小川 一水. 天冥の標Ⅱ 救世群 (Japanese Edition) (Kindle の位置No.3316-3322). Kindle 版.