基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ウンベルト・エーコ 小説の森散策 (岩波文庫)

もうすぐ絶滅するという紙の書物について by ウンベルト・エーコ,ジャン=クロード・カリエール - 基本読書 を読んでからエーコを読むぞモードに入っている。熱が続く限り、エーコ本を次から次へとレビューしていくがまずはこれからいこう。

ウンベルト・エーコ 小説の森散策 』は1996年に出たエーコの文学講義の文庫版であり、昨年出たばかりの割合新しい著作。岩波から出ている。ウンベルト・エーコの小説への向き合い方がじっくりと放出されていおり、まるで窺い知れない読書への造詣の深さに触れることのできるちょうどいい一冊だと思う。

文庫化にあたり改題されてしまっているが、中身は変わっていない。ようは講義録である。著名な作家ともなると講義録が出るものだが、ボルヘスナボコフカルヴィーノにとみなそれぞれに異なる語りを選択するのでまったく飽きずに読むことができる。結局、それだけ小説の読み方なるは一様でなく、各人各様の探索の仕方があるのだろう。エーコはこの読みについて、虚構の連なりを「森」と表現してみせ、読むことを「散策」と位置づけてみせた。

本作はゆえに、エーコの小説探索術の体裁をとって、散策をするとはどういうことなのか、どういった種類の散策がありえるのか、読者が物語を読む時そこでは何が起こっているのかを幅広く論じていくものになっている。こうしてひと通り読み終えてみると、エーコの独特さは、いかにして読みを愉悦に変えていくのか、「読むことを快楽へと変換させていく」ことへの徹底的な追究であると思う。

「読む」と一言でいってもそこには楽しみ方がいくらでもある。たとえば舞台となった場所に実際にいってみるのだって楽しみ方のひとつであるし、そこに自身を感情隠喩させていくこともあれば、いったん客観的に離れ、様々な角度から検討することもある。しかし──、たとえば「物語を読む」ことがただ「スタート地点から走って結末へ到達すること」であると考えている人間には、楽しさは一次元的な広がりしか持ち得ないだろう。

エーコが教えてくれるのは、楽しさの間口なのだといっていい。君が歩いている場所は一本の線なのではなく三次元の森なのだと指摘みせるエーコの文学講義を受けると、今まで漫然と歩んでいた場所が想像以上に豊かな場所であったことに気がつくことだろう。エーコは読者が考えたこともないであろう問題を提起して論じていく。たとえば物語が持つ「速度」についてだとか。

森は散策の場所です。狼や人喰い鬼から逃れるためにどうしても抜け出る必要がないのなら、のんびりするのも悪くありません。木立のあいだを抜け、草むらを彩る光をながめたり、苔や茸や下草の様子をじっくり調べたりして。のんびりするというのは時間を無駄にすることではありません。なにか決定を下す前には、しばらく立ち止まってよく考えてみるものです。

もちろんここでいう森とは虚構の広場であるからにして、草むらを彩る光をながめたり、散策とは、そのまま虚構の森で寄り道をたどることだ。その目的はなんだろうか? 緩急それ自体が読みの快楽であるということもあるし、ダンテの『神曲』のように、記憶が圧倒されてしまうために表現できないものを目撃するという、その瞬間に到達する為にわざとゆっくりと進んでいくことだってある。

本作はそうした探索の技法を上げながら、自身の作品や名作たちを例にあげ説明していくので、この本自体がある意味では「小説の森」であるといえる。わずか本文250ページの本だが、じっくりと煮詰まった思考が入り口となってその後ろへ控えている広大な領域を垣間みせてくれる。

小説を読む理由

こっからは余談。個人的に読んでいて一番おもしろかったのはエーコ『きわめて重要な美学的理由を別にすれば、わたしたちが小説を読むのは、真理概念に疑問を差し挟む余地のない世界に生きるという安心感をあたえてくれるからだとわたしは考えています。』と言い切ったところだ。ここだけ読むと意味がわからないと思う。うん? 虚構は虚構なのではなかろうか?? 疑問を差し挟む余地がないってどういうことだろう?

それはつまり次のようなことらしい。まず現実がある。たとえば僕の部屋にはアルマジロはいない。これを読んだ人は「何を当たり前のことを」と思っているかもしれないが、しかし実際それにどれほどの確信を持つことが出来るだろうか? 目で見たわけではないのだから、これまでの経験的事実からアルマジロがいる家がそんなにあるはずがないと推論できても、実際にそこにアルマジロがいないかどうかなんて、確信が持てるはずがないのではなかろうか?

またたとえば、認識論的にいえばアポロが月に人間を送り込んだなんてわからないのである。それでもなぜ多くの(真っ当な人が)ちゃんとアポロは月に行ったかと信じられるのかといえば、情況証拠であったり当時もっとも嘘を暴いて利益を得たであろうロシアがそれをしなかったことだったりといった周りを埋めていくことで「確からしい」と確認していく。

でも僕の部屋にアルマジロをいないことについては確信を持てたとしても、世の中にはやっぱりアポロは月にいっていないというひともいるし、過去は本質的にあやふやなものだ。ナポレオンが死んだ年が本当に正しいとどうしていえるだろう。朝食べたものも思い出せないのだとしたら過去は随分と脆い地盤の上にたっているし、それは伝聞情報だって同じことだ。

これに対して虚構は、明確に述べられていないことを推測する自由はあるものの、明確に書かれていることと反対のことを述べるわけにはいかない。もちろん語り手が嘘を付いている可能性などいくらでもバリエーションは考えられる。しかし、『風と共に去りぬ』でスカーレットはレッド・バトラーと結婚をしたのは、誰がなんと言おうとも変わることなく確信を持てる真実なのだ。

さらにいえば物語は、物語であるというその情報の時点でそこには何かメッセージがあり、その背後には作者という権力者、創造者がいて読書の指針として存在していることが、確信を持っていられるという意味でも安心の出来る存在なのだ。現実では「なにかメッセージがあるのだろうか。あるとすればそこにはどんな意味があるのだろうか」とたえず問い続けていかなければいけない。

と、こうやって書いていくことではじめてエーコがいっていた「真理概念に疑問を差し挟む余地のない世界に生きるという安心感」の意味がわかる。小説は安心して探ることを許され、そして肯定してくれる探索場なのだ。これは読んでいて実に驚いた部分だった。いわれてみれば、たしかにそうなんだよね。

読んでいるとそれが何をいっているのかよくわからない物語であっても、そこには何かの見えていない意図があるはずだという安心感があって、だからこそじっくりと耽溺していくことができるんだ。そして虚構の世界に精神を飛ばしたり、世界を再構築していくのは、我々が世界を理解し過去を再構築する力と、まるっきりつながっているんだよ。小説という安心感をもって構築された遊び場で、我々は現在の、そして過去の体験を体系化する能力を養っていくんだ。

ウンベルト・エーコ 小説の森散策 (岩波文庫)

ウンベルト・エーコ 小説の森散策 (岩波文庫)