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水曜日のアニメが待ち遠しい:フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす by トリスタンブルネ

水曜日のアニメが待ち遠しい:フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす

水曜日のアニメが待ち遠しい:フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす

インターネットによって比較的国境なくコンテンツを受け取れるようになったとはいえ、言語の壁、配給の壁、そもそも「どこで出会うのか」まで含めたトータルな体験レベルでの壁/差異はまだまだ大きいのが現状であろう。幼少期に、日常的にアニメがテレビで放送されているのとされていないのとでは、当然ながらその後の受容態度も大きく変わってくる。かつて、夕方にやっていたアニメをついついみてしまって、その後の人生が決定付けられてしまった人も、多いのではないかと想像する。

本書『水曜日のアニメが待ち遠しい』は、副題についているそのままの通りで、1976年生まれのフランス人である著者から見た日本サブカルチャー体験記ともいうべき内容の本。フランスはマンガ全体の売上の約3割を日本マンガが占める、パリのオタクの祭典ジャパンエキスポの来場者が24万人に達するなどその勢いが激しい。国が違えば視聴環境も違い、移民の増加によって広がる多文化の摩擦など「受容する側の環境」に、大きく作品の受容体度も左右される。予想外の理由で人気になることもあれば、同様に敬遠されることもある。

それではなぜ、フランスではそんなに日本のサブカルチャーが流行するようになったのか? を解き明かしていくのが本書の一応の役割といえる。著者は日本史学の研究者ではあるが、本書は研究的な側面はあまり強くなく、そのまま「文化の違いを楽しむ体験記」として読むのがいいだろう。

水曜のアニメが待ち遠しいって?

書名になっている「水曜日のアニメってなんのこと?」が最初のフックとなるが、これは1970年代当時、フランスの小学校は水曜日がまるっと休みで(うらやましいなおい)、国営放送しかなかった当時、既に子供向けのアメリカアニメを流している放送局に対して日本アニメを中心として流しはじめる局が存在したことに起因する。つまり当時フランス人小学生は休み水曜日に家にいて簡単にテレビで日本アニメが見れる環境が整っていたのだ。

で、1970年代当時人気を博していたアニメの一つが『UFOロボ グレンダイザー』なのだという。永井豪原作で日本だと『マジンガーZ』の方が有名だろうが、なぜかこの『UFOロボ』の方が近未来的じゃあないかと輸入され(当時フランスアニメを1分作るのに70万円程かかるのに対し日本アニメは1話20万円だった。)フランスアニメにされ、その過程でさまざまな改変を受けることになる。

翻訳についての話

この改変がけっこう面白い。主要登場人物の名前はすべて星の名前(アルコルとか、リゲルとか)に変更され、必殺技を放つときに叫ばれる技名は「スペース・サンダー」などからギリシャ語やラテン語を駆使した、詩的な響きのある「コルノフュルギル(Cornofulgure)」に変更されるなど翻訳の過程でフランス流に変更されていく。コルノがフランス語でいうところの角で、フュルギルが稲光の意味らしい。

こうした翻訳過程における改変は、名前を変えるぐらいならかわいいもので、「ガッチャマン」なんかはもともとテロ組織のような敵が宇宙人ということになっていたりする。しかもなぜか元アニメに存在しないロボットを勝手に付け加えて話に介入させた結果、ガッチャマンたちとそのロボットは絶対に同じ画面にうつらない(ロボットの部分は独自につくってるから)、カットされた戦闘シーンを全てロボットが口で解説するとかなりいう次元なことになっていたようだ。

環境の違いによって人気になることもあれば、嫌悪されることも。

そうやってフランス流に改変をうけ『UFOロボ グレンダイザー』はフランスの小学生の間で大ブームになったわけではあるが、その後日本アニメ・マンガなどサブカルチャーの流行に冷水を浴びせかけるような「日本バッシング」が続くことになる。やれ、文化侵略だなんだといって。このあたりの流れは極端なオタクバッシング熱が高まっていた当時の日本事情とも共通するものがあるようにも思う。

「それまでとはまったく違った文脈」を持つものに熱狂している若者へ、大人が理解不能な目を投げかけ抑制しようとする、何度も繰り返されてきた流れだ。こうして人格を損なうとか、犯罪をするようになるとか無根拠な批判に晒されることになるアニメやマンガだが、極端すぎて笑える(今となっては)ものもある。「ドラゴンボールZ」で、悟空などがサイヤ人化する時に金髪に目が青く変化するのを受けて「ナチス・ドイツの理想化したアーリア人にそっくり」といって批判されたのだ(バカなんじゃないか)。

そんなこんなをえながら

さあ、とはいってもその後ジャパンエキスポがはじまり、フランス人は当たり前のように日本サブカルチャーを摂取するようになり、ナルトを読むようになっていくわけで、結局「理」のない話は長続きしないことの証明であるようにも思う。

最初のほうで、単純にフランス人が日本サブカルチャーを受け入れていく体験記のように読むのがいいといったが、それ以外にもいろいろな読み方・引き出し方のある本でもある。たとえば、全く違った環境と文脈を持つ国ごとに、どのように作品を売り込み、適合させていくのかを問いかける一冊としても読める。著者は日本史学の研究者であると同時に、本書を日本語で書いていることからもわかるとおり日本語に堪能で北斗の拳の翻訳なども担当している翻訳家だ。

実はフランスでの日本マンガの売上も2009年をピークに徐々に下降傾向にあるというし、かつてのような超訳をやれというのではなく、文化の行き来が当たり前になった現代において最適な異文化への輸入・輸出のやり方も常にアップデートをかけていく・その方法を常に模索していかなければいけない時期にきているのだろう。本書はそのへんはメインではないが、まあいろいろと考えるきっかけにはなる一冊だ。