基本読書

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世界の天秤を傾ける事件に関わった、歴史に残る翻訳者たちの苦闘について──『生と死を分ける翻訳: 聖書から機械翻訳まで』

日夜世界の様々なニュースやコンテンツが翻訳されてくる昨今。翻訳に触れる機会が増えているからこそ、翻訳の限界や難しさを感じることも多い。僕が最近翻訳の難しさを感じたのはアニメ『葬送のフリーレン』の「葬送の」の訳だ。

日本人からしたらその意味を完全に理解しておらずともなんとなく字面でその曖昧なニュアンスが理解できるが、そのニュアンスを完全に翻訳するのは難しい。たとえばタイトルを英語で直訳したら「Frieren of the funeral」になるが、これはいってみれば「お葬式のフリーレン」であり、感覚的にはダサくなってしまう。

英語版タイトルは直訳ではなく作品のテーマを優先し「Frieren :Beyond Journey’s End」、「フリーレン:旅の終わりの先」となっている。一方、作品に登場する魔族たちがフリーレンのことを指して「葬送のフリーレン」という時は、Frieren the Slayerと訳されている。こっちはこっちで葬送のニュアンスは消えてしまっているので、なかなか難しいところだ。たとえニュアンスが失われても直訳で簡潔にか、より正確にニュアンスを優先して長くか。翻訳家は常に難しい選択を迫られる。

エンターテイメントなら翻訳が下手くそだったり端的に誤訳だったとしても微妙だな、と批判されて終わる話ではあるのだが、ことが政治だったり法廷での通訳だったりすると誤訳は誰か──時に、国民──の命にかかわってくる。

本書『生と死を分ける翻訳』は、そうした翻訳の成果が誰かの生死を分けたり、歴史を揺るがした事例を集め、そもそも翻訳、通訳とは何なのか、素晴らしい通訳とは何なのか──といったことを問うていく一冊である。著者はロシア語の文学やノンフィクションの英訳を行い、通訳を担当することもあるジャーナリストのアンナ・アスラニアンで、政治の舞台や法廷での通訳から聖書の翻訳まで、専門であるロシアを超えて、幅広い分野の事例を論じて見せる。僕は自分で翻訳をするわけではないが、日頃から翻訳ノンフィクションやフィクションをメインで楽しんでいるから、本書で語られていく数々の翻訳苦労話やエピソードはどれも興味深く読んだ。

黙殺をどう訳すか?

最初に「翻訳が人の生死を揺るがした例」として紹介されているのは、奇遇にも日本における例だ。時は1945年の7月26日。連合国首脳は交戦相手の日本に降伏を要求するポツダム宣言を発表した。日本の新聞各紙はこの通告にたいして検討に値しない代物と断じて批判的に報じたが、国としての立場は最終的にポツダム宣言を拒絶もしないが重視することもないと曖昧な態度をとることになった。

当時の鈴木首相は記者会見で、この宣言文書には重大な価値があるとは考えないと述べ、「ただ黙殺するのみ」と付け加えて終えたがこの訳が難しい。「黙殺」は英語に直訳すれば「Kill with silence(沈黙でもって殺す)」になるが、鈴木首相はこの語を「ノーコメント」の意味で使ったと語っている。「黙殺」は英語圏では「無視する」や「無言の侮蔑をもってあしらう」と訳され、『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面には「日本、連合国の降伏勧告を公式に拒絶」と(意図の離れた)見出しが踊った。もちろん、「黙殺」の語をめぐる翻訳のすれ違いだけでその後の広島に原爆が落とされたわけではないけれど、翻訳は片方の天秤に加担したとはいえるだろう。

私たちは多言語世界に住んでいるが、この世界の歴史の天秤は、いたって平穏な時代でさえ不安定なものであり、言葉の解釈一つで左や右に大きく傾く。翻訳者の中には、自分を単なるパイプ役と考え、意味だけを通す不可視のフィルターに徹することを理想とする人もいるが、そんなに単純にいくものではないとの声もある。翻訳(通訳)者は、自分なりの単語を使い、自分なりのアクセントや抑揚をつけて翻訳(通訳)するしかない以上、どうしたって原文に影響を与えてしまうからだ。(p.13)

政治の舞台でのすれ違い

「生死にかかわる」といえば、まず最初に上げられるのは政治の舞台だろう。今でこそ国際的な情報のやりとりは活発で、たとえ一瞬通訳と現地の人々の間での意図の行き違いがあったとしても訂正することもできるが、かつてはそうではなかった。

たとえば1962年のこと。キューバでのソ連のミサイル基地建設をめぐって米ソが対立したキューバ危機が起こった。最終的にアメリカはミサイル基地への海上封鎖まで行い、ソ連はミサイルを撤去することで両者衝突は回避されたのだが、この時のやりとりには翻訳の難しさがよく現れている。たとえば海上封鎖に関するケネディとフルシチョフの電報でのやりとりの中でケネディは隔離、検疫を意味するquarantineを使いそのまま疫学的意味で使われるロシア語に訳されたが、これがもしそのまま封鎖を意味するblockadeが使われていたとしたら、レニングラード包囲戦をソ連側に思い起こさせる訳語があてられ、より文面は威嚇的に伝わった可能性がある

最終的にフルシチョフはキューバ危機をめぐるやりとりの中で「貴国が攻撃的とみなす兵器の解体を約束する」と送ったが、結果的に「攻撃的とみなす兵器」の定義をめぐって争い、ソ連は爆撃機も撤退せざるをえなくなった。この推移は曖昧な言葉の使用、またその翻訳が良い方に左右した例ともいえるが、ボタンがひとつかけちがえば、より凄惨な出来事(たとえば核戦争)につながっていたとしてもおかしくはない。

翻訳(通訳)者は冷戦の仲介者であったばかりでなく、当事者でもあったということだ。p39

ユーモアをいかに瞬間的に訳すか

個人的におもしろかったのが、瞬発力を求められる同時通訳者がどうやって「ユーモア」を訳すべきなのか? が問われている第二章「笑いの効用」だ。ここで取り上げられていくのは、イタリアの元首相でありながらもエンターテイナーとしても知られるベルルスコーニの通訳を長年つとめた、メルクムヤンという人物である。

ベルルスコーニは会話や演説の中でジョークをよく仕込む人物だが、難しいのはジョークは自国の文化や常識と密接に関わっていて、それをそのまま訳すと本来の目的(相手を笑わす)が達成できない可能性があることだ。たとえばイタリアでよく知られたジョークにシラミがオチに使われるものがあるが、ロシアではシラミは不衛生の象徴であり、嫌われている。そのため、そのままシラミジョークをロシア人向けに通訳すると笑いが取れない可能性があるのだが──そういう時、メルクムヤンは相手の国、そして文化にあわせてオチを変える(たとえば、オチのシラミを蛾にかえたり)のだ。

メルクムヤンはこの手の見事な翻案のエピソードに事欠かない。たとえばベルルスコーニが盟友であるプーチンについて問われているインタビューの中で、お二人の無尽蔵のエネルギーはどこから来るのですか、と言われ、ベルルスコーニは「仕事前に特別な座薬を使うだけだ」とジョークを言った(イタリアでは座薬を使うのはごく普通のことだという)。とはいえロシア人向けに座薬は具合がよくないなとメルクムヤンは判断し、これを「魔法の錠剤を三錠飲むだけだ」に変えて訳した。逆に、錠剤の言い回しはイタリアでは使えない。麻薬常習者のイメージがついてしまうからだ

メルクムヤンは通訳者について、下記のように語っている。

「通訳者には、正確に訳すことが肝心で、あとは仕事の範囲外だという考えの人も多いですが、私は違います。話し手が念頭に置いている目標、それが何であれ、その目標に向かって最大限の努力をします。」

すべての通訳者がかくあるべしというわけではないけれど、メルクムヤンはベルルスコーニや雇い主らから、高く評価されていたようだ。少なくともジョークをよくいう話者にとっては、素晴らしい通訳者であったことだろう。たいていの場合ジョークが機能するためには最低でも二人の人間が必要だが──『もし、そのうちの一人がそのジョークの作者で、もう一人がその翻訳者だとしたら、まずは一緒に笑うことこそが、翻訳先言語でも笑えるジョークを作る第一歩になる。p54』からだ。

おわりに

本書を読むと、翻訳がいかに一筋縄ではいかない職人的な技術と、技術以上にたゆまぬ努力が必要なのかがよくわかるだろう。メルクムヤンはベルルスコーニが話題に出したりジョークに出す可能性を考えてその日のニュースのチェックをしていたというし、ジョークを適切に訳すには通訳相手の文化にも精通している必要がある。

通訳の話題ばかり取り上げてしまったが、活字翻訳の話も存分に語られている。たとえば科学系の文章は簡単に直訳できるだろうと思うかもしれないが、実際はそうではなくて──と、最初期の火星の観測報告をどう翻訳するか(すでにある言葉に翻訳すると、火星に文明があるかのようにも読めてしまう)の事例であったり、バベッジの解析機関のように新しい概念について翻訳するためには、その対象への深い理解と、自国の言語に訳す時、ある種の創造性さえもが必要とされて──と、原文と深く向き合った翻訳家の女性エイダが取り上げられたりと、トピックは多岐に渡る。翻訳ノンフィクション、フィクション好きにはたまらない一冊だ