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死のさなかにも生きてあり──『あまたの星、宝冠のごとく』

あまたの星、宝冠のごとく (ハヤカワ文庫SF)

あまたの星、宝冠のごとく (ハヤカワ文庫SF)

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの死後、1988年に発刊された短篇集が日本では30年近くの時を経て、ほとんど初訳として発刊された。

題材は特殊なタイム・トラベルもの、異星生物ものとさまざまだ。どうしても時代を反映しているので、題材的に古臭いところはある。それじゃあ古びて今読んだらつまらないのかといえば、これが少なくとも僕にはめっぽうおもしろい。題材が古くとも語りは新鮮で、やはりどこまでもティプトリーの作品だ。それは文体や題材だけではなく、生を描いていても常に死の気配があり、死を描いている時そこには安らぎと確かな意義を感じさせる全体の内容そのものとして。

でもそれは、ティプトリーが僕にとってはSFへとのめり込んでいくきっかけとなった作家であり、本書収録短篇の多くが晩年のティプトリーと(僕はその時期は残された物でしか知らないけど)、その死に様をどうしても彷彿とさせるからなのかもしれない。原書が刊行される前年に、84歳で寝たきりだった夫を射殺し、自分自身にも銃弾を撃ちこんで自殺しているわけだから、意識するなというほうが無理だろうが。

と思って本書を一回読んだ後時間をあけてできるかぎり客観的に、思い入れを排して読み返してみたんだけど、普通におもしろかったわ。全部で10篇もあって1篇1篇紹介を入れていくのは大変なので印象的なのを数篇ピックアップしてご紹介しよう。

アングリ降臨

わりとお気楽な調子で異星生物との接触が語られる。お約束を破壊しにかかっており、ファースト・コンタクトの場面もあるが真っ当に話は進み、地球にやってくることになるが異星生物が支配するわけでもない。一見したところ、人類にテクノロジーを与えて強制変化させるようなこともない。しかし彼らに神がいるのかと質問すると、実際に連れてきてくれることになって──と結果的には人類全体がひっくり返るような事態に繋がってしまう。この方向性は今読んでも先鋭的なように思う。

「アングリ降臨」から連想されるキリスト教の規則や聖書に書かれている文言を否定したりアップデートをかけていく内容で(それもある意味ではお約束の破壊といえるか)、最終的にはいろんな象徴がうまく噛み合うのがすごい。

悪魔、天国へいく

タイトルがすでに笑えるが最初の一文からふるっている。『神が死んだので、魔王サタンは彼よりしばらく長生きすることとなった。』である。天国への弔問にサタンが向かう途中に、処女の息子の父だとかの抽象的論議を『彼の実用主義的精神には手に余るものだった。』といってみたり、『彼はイエスという男を純粋な狂信者として尊敬している』という文言がいちいちおかしい。

宗教系の短篇ばっかりなのか? といえばそういうわけではない。「肉」は妊娠中絶が禁止された世界でレイプによって子どもを孕んでしまった女性が、養子縁組センターへ自分の子どもを預けにやってくるが──という短篇で……それでホンワカするようなオチになるのであれば「肉」なんてタイトルがついていない。

妊娠中絶なんて恐ろしい物がなくなってよかったわねと無邪気に喜ぶ人や、宿ってしまった子どもになんとしても幸せになってもらいたいと願う親の気持ち、自分では育てられないけれど離れたくない、いったい誰にもらわれていくのかせめて見届けたいと養子縁組センターの出口でずっと待っている女性など、色んな立場の人間と親の感情が綿密に描写されていて、染みる短篇だ。

もどれ、過去へもどれ

この短篇集の中でも特に好きな一篇。特殊なタイムトラベル物で、自分の人生の中だけ時間軸で移動が可能な技術があるが、移動した先でのことは一切覚えていられない。覚えていられないなら行く意味ないだろうと思うが、みんな「自分だけは覚えていられる」とか「策がある(身体の内部に刻みつける)」とか、秘策を携えて行く。

物語の中心となる女性は前途洋々、タカビーな20歳の女性で75歳の自分へとタイム・トラベルを決行する。事前の予想では、子どもが複数人、メイドがいて世話をやいてくれ上流階級の生活を満喫している優雅な老人であったが──。そこにいた自分は、冴えない中流階級の男と結婚し、安っぽい家で暮らしている老婆であった。

タイムトラベルの特殊性自体はそうおもしろいものではないが、未来は明るいと信じて疑わなかった女性が思いもよらぬ未来の現実を見せられ、その状況に適応していく過程そのものがおもしろい。自分を振り返ってみてもこれまでの人生は期待と失望の連続で、「思っていたよりも凄くなかった自分」を受け入れていく過程は、多くの人間が多かれ少なかれ経験しているものではないだろうか。

彼女は自分のこれまでの歩みを知り、隣りにいた冴えないと思っていた男の魅力を発見していくことになる……というあたりまでは普通に「おもしろい話だなー」と思っていたのだけど、その後の彼女が起こす、決然とした意志と、多大なリスクを背負った覚悟あるアクションに唖然とし、評価がさらに一段階上がることになる。

地球は蛇のごとくあらたに

これも大好きな一篇。特殊な性癖を持つ女の子が主人公で、彼女は男性を『父親とはちがうもの』と定義していた。『ああ、そうなのだ! 彼女は感じていた……巨大な硬いものと触れ合うのを感じていた。』へ、変態さんかな? と最初はビビるが、読み進めていくと彼女にとっての男性とは地球であり、恋をしてしまう事実が判明する。紛うことなき変態さんである。

〈地球〉は、彼女の〈地球〉は男性なのだ。彼女の小さな身体をかたちづくる細胞のひとつひとつが、それを知っていた。彼女は男性としての機能を持つ存在の上に住み、その存在によって星間空間を運ばれているのだ。そして彼女は、その機能がそれ自体をどう定義していようと、その名は〈愛〉だということも知っていた。
 彼女と〈彼〉つまり〈地球〉とのあいだに存在する愛はとても深いものだったので、彼女はその愛についてはひとことも口にしたことがなかった。魚が水を信頼しきっているのとおなじことだ。

いったいこの物語はどこへ向かうんだ……と恐れおののくが、最初彼女は〈彼〉と出会うためにアルプスにいったりエーゲ海の小島にいってみたりマルケサス諸島にいってみたりとようは絶景めぐりの旅みたいに出てみたりもする。地球は生命のない岩でできた球体だという説を信じている母親をみて「もしかしてお母さんのいうとおりなのでは?」と恐怖にすくんでみたりもする(どういうことだ)。

このままだとSFというか変態小説だが、そうした恐怖を乗り越えた先に少女は人間の手で環境が破壊されていることに強い怒りを覚え、地球を救うことを決意する。彼女は地質学や自然物理学、海洋学といった地球を知るためのあらゆる学問に邁進し、ついに愛する〈彼〉を太陽というしゃらくさい重力から解き放つことを計画しはじめる──。「地球を男性として愛する女の子がいたら」という仮定からとんでもない地平までたどりつき、圧倒的な情景を描き出してみせた。色んな意味で凄い作品だ。

死のさなかにも生きてあり

銃を口に突っ込んで自殺した男が死の国へとたどりついてしまう。『一向に薄れない黄金色の空、夕刻の美しいひととき』、死後の世界であってもそこには生活があってやらされることがある状況がたんたんと描かれていく。死んでもなお生きなくてはならないとは。ここにティプトリーの死生観が現れているなどというつもりはないが、雑誌に死後掲載されたもので生前にいったい何を考えてこの作品を書いたんだろうなあとつい考えてしまう。われ、死のさなかにも生きてあり。

おわりに

作家と作品は分けて考えるべきだ、たとえ作家が極悪人だったとしても、たとえ作家が壮絶な人生をおくってきた人間であったとしても、作品とは別物だ、という意見がある。理念的にはもっともな話だ。それでもやっぱり僕は作品を読む時はどうしたってそれを書いた作家の顔を浮かべてしまう。ある作品に感動している時、多かれ少なかれ「その凄い作品を生み出すことのできた創り手の凄さ」へも感動しているものなのではないだろうか。人間は、こんな作品を生み出すことができるんだと。

ティプトリーってなんぞや? って人も本書からその作品を知っても良いのではないかと思う(他が現在手に入りづらいのもあるが)。