基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

理知を捨てるものこそ理知を拾う──『ブラウン神父の無垢なる事件簿』

ブラウン神父の無垢なる事件簿 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

ブラウン神父の無垢なる事件簿 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

あのエラリー・クイーンは、〈これまでに創造された探偵三巨人〉として、ポーのデュパン、言わずもがなのシャーロック・ホームズにブラウン神父を入れている(と解説で明かされていて初めて知った)。普段そこまでミステリを読まないもので、ポーやホームズはそれなりに読んでいてもこのブラウン神父物は読んだことがなかったのだが、本書はブラウン神父物の5冊の短篇シリーズ、その第1冊の新訳版となる。

ブラウン神父という胡乱なキャラクタに加えそのトリックは、江戸川乱歩が評論集『続・幻影城』の中で『「ドイルには今日の意味でのトリックのある作品が案外にも極めて少なく、これに反してチェスタートンには悉くトリックがあり、そのあらゆる型を案出していると云ってもよい」*1と言っているぐらいさまざまな作品に継承され、発展されていった。いわばトリックの原型師である。

たしかに物理トリックも首の切断トリックもあって──と、僕はそのどれがここを原典、もしくは祖形とするものなのか正確にはわからないけれども相当に幅広いトリックの源泉となっているのはよくわかる。どれも後世に継承される過程でより洗練されていったものを僕もたくさん読んでいるが、1911年に原書が刊行された本書をそれでもおもしろく読めるのはその「魅せ方」が優れているからだろう。

鮮やかな解決

いくつもの謎が山のように降ってきて、それに対して「もっともらしい妥当な解釈(たとえば誰かが狂ってやったんだとか)」が示されるもブラウン神父の手にかかればあっというまに覆されて、バラバラだった事象のすべてが一つに繋がっていく。

一番最初に収録されている「青い十字架」はそのお手本のような作品だ。警察であるヴァランタンが大怪盗であるフランボーを追ってロンドンへと向かっていると、砂糖入れと塩入れの中身が入れ替えられている、窓代をあらかじめ払ってから割る、飯屋で三倍の額をわざわざ払うなど摩訶不思議な行動をする神父の二人組を発見する。いったいなぜそんな意味不明なことをするのか、フランボーに繋がるのか──と追っかけてみればその一つ一つの全てに意味のある解答が与えられる。

似たタイプだと「三つの凶器」では、誰にでも愛されていた慈善家のアームストロング卿の殺害事件が扱われる。シンプルなタイトル通り、死者の部屋には刺し殺せるナイフ、首を絞められる縄に、拳銃と三つの凶器が散らばっているが死因は窓から落ちて首の骨を折ったことだった──それらしい理由を並べ「自分がやったのだ」と自白する人間まで現れるが凶器がそこら中に散らばっている理由がわからない。演出過剰ともいえるが終わってみれば全てが鮮やかに繋がってみせるのが実に心地よい。

思い込み、先入観こそが目に見えない透明人間を生み出してしまう認知の隙をついた「透明人間」。完全に叩き潰された頭、傍らに落ちていた凶器と思われるハンマーはとても小さくて、力の弱い者にはとてもそれで頭を潰せるようには思えないが
それを可能にする方法を見事に導き出す「神の鉄槌」。木の葉を隠すなら森のなか、では森がないのであればどうしたらいいか──とまるで読者への挑戦状のように問いかけてくる「折れた剣の看板」は傑作といっていいだろう。

かつて父親を殺されたことを恨んだ若者が公爵へと決闘を申し込み、そのまま殺してしまうが実はその公爵は──と見えているものをいかに信用してはならないのかが描かれる「サラディン公の罪」などなどトリックの幅とその魅せ方は驚くほど広い。

ブラウン神父

読者に対して先入観ともいえる「オーソドックスな謎の解釈」を提示し、その後見事にそれを覆してみせる爽快な謎の解決に加えて、ブラウン神父というキャラクタもまた興味深い。最初の短篇「青い十字架」では『まさに東部のヌケ作の典型みたいな人物だったのである。まずノーフォークの茹で団子みたいに見栄えのしない丸い顔をしていた。眼は北海みたいにうつろだった。』などと語られており、よくもまあそんな悪口が出てくるよなと思う酷評ぶりである。しかしそんなヌケ作みたいな人物から、類まれなる推理が飛び出してくるのだ。

 ブラウン神父は黒服姿のままじっと動かなかった。が、その瞬間にこそ彼は理知を捨てたのだ。彼の頭脳は理知を捨てたときほどいっそう真価を発揮する。そういうとき、彼は二とニを足して四百万もにしてみせるのである。(……)しかし、そういうとき得られるものこそ真のインスピレーション──稀なる危機にはきわめて重要なインスピレーション──なのだ。誰であれ、理知を捨てる者こそ理知を救うのである。

これが、ただの才能ある人間ではなく神父の言葉から出ているというのがまた重要なところであろう。同じく「青い十字架」では、ブラウン神父ともう一人の偽神父による神学論争が事件解決のキッカケとなるのだが、偽神父が『それでも、われわれの道理をおそらくは超えるほかの世界というものがあると私は思います』と言ったことで、ブラウン神父はこいつは聖職者ではないと確信するのだ。

「あなたは道理というものを貶めようとしました」とブラウン神父は言った。「それは愚かな神学です」

と。もちろん道理を貶める=理知を捨てるとは意味が異なるわけではあるが、カソリック教会やブラウン神父自身も通常その手(理知を捨てる)を認めないのである。それでいながらも自身の最大の武器であって、ヒーロー物によくある「超越的な力を使うために内なる蛮性を制御しなければならぬ」的な二律背反が感じられるわけである。

もっとも、ブラウン神父のキャラクター性それ自体はホームズのように強烈なものではなく(見た目も悪いし)、いくつもの事件現場にたまたま居合わせ、あるいは呼び寄せられ、たちどころに問題の真髄を言い当ててみせるある種の解決装置のようにさえ見える。時々現れる神学論争や宗教的な見地は彩りとして存在するものの、むしろその装置性ゆえに、事件そのもの、トリックの鮮明さがよく際立っているともいえる。

三巨人とはよくいったもので、それぞれ原典にして見事に魅力がわかれている。解説を読む限り、第二集以後はトリックのキレとは違う方面の魅力に向かうようであるが、本書に関して言えばその冴え渡るトリックを存分に楽しむことができるだろう。

*1:これも解説より