- 作者: アトゥール・ガワンデ,原井宏明
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2016/06/25
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
私にとってショックだったのは、医療が人を引き戻せない場面を見たからである。理論的には両親も死ぬということをもちろん私も知っている。しかし、実際の場面ではまるで規則違反のように見えた。試合のルールが破られたかのようだった。いったいどんな試合を戦っているのか考えていないのに、いつも私たち医師が勝つことになっていた。
その葛藤にたいして、何の打つ手もないのであれば話は簡単であったかもしれない。だが現代の場合は色々できてしまう。致命的な腫瘍であっても、外科的な手術、あるいは投薬/放射線による延命は可能だ。自分自身で呼吸ができなくなったとしても、人工呼吸器から何からなにまで総動員することで避けられぬ死を、少なくとも遠ざけることが可能である。しかしそれはあくまでも「遠ざけている」だけのこと。
我々は死を遠ざけることができるのだとして、どこまで遠ざけるべきなのか? どこで死と折り合いをつけるべきなのか? 死との折り合いをつけられることなんて可能なんだろうか? 僕も自分自身がいざどうしようもない状態になってしまったら、いたずらに延命をするよりかはその時にできるかぎりの「良い人生を」おくれるようにして死に向かいたいと思うが、実際に直面したらどれだけ確率が低くてもあらゆる治療をやってくれと言い出すかもしれない。両親に対しても同様だ。
本書『死すべき定め――死にゆく人に何ができるか』は現役の外科医であるアトゥール・ガワンデによる、そんな避けられぬ死についての考察を重ねた一冊である。
この本は、死すべき定めについての現代の経緯を取り扱う。衰え死ぬべき生物であることが何を意味するのか、医学が死という経験のどこをどう変え、どこは変えていないのか、そして人の有限性の扱い方のどこを間違えて、現実の取り違えを起こしてしまったのかを考える。
この手の問題は正解のない問いかけだけに難しい。どのタイミングを持って生を諦めるのか? チューブに繋がれ自発的な呼吸ができなくなったら──と簡単にはパターンを分けられない。認知に問題が出るパターン、回復は難しいが、ある治療法を用いた場合ほんの僅かだが生存できる可能性があるパターンなどなど。「ひょっとしたら治るかもしれませんよ」と言われたら、それに抗うのは難しいだろう。
医学は「治す」ものだという思い込みがある。たとえ何か致命的な病名を告げられたとしても、まず聞くのは「どうすれば治りますか?」だろう。実際、医師の側も「もうこれ以上何もできません」というのは稀になってきている。そうすることで、とてつもなくよいことがいつか起こるかもしれないんだから。死というものが曖昧になったおかげで、死について考えることもあやふやに──極端な話、直近の死が避けられなくなった時でもそれが受け入れられなくなってしまっているといえるだろう。
弱っていく両親や近親者の介護にしても、より「善く生きてほしい」とは思うのはほとんどの場合当たり前だ。しかし現実的に考えれば介護者にもそれ以外の生活があり、介護を必要とする相手へすべての時間を注ぎこむわけにはいかない。死を受け入れなければならない当人も困難と直面しているが、介護者にとっても「やってあげたいことが、どうしても満足にはできない」というジレンマがそこでは常に発生する。
本書では、著者自身が医師として勤務する中で出会ってきた無数の末期患者らとの体験、最後には自身の父の死を受け入れていく過程を通してこの問題を多角的に検討していく。老人病院は、入居者の幸せを第一義に考えているだろうか? どこまでも「治そう」とする医療は本当に正しいのだろうか?『私たちは不治の病の患者に対して全力を尽くして治療しながら、これは患者が望めばいつでもすぐに降りられる列車だと説明している──いつ降りたいかだけを言ってくれればいい。』
楽観的にもなりすぎず、悲観的にもなりすぎないこと。限界を延ばすのもいいが、限界を設定してその中で最善を尽くすこと。最終的には、限界を延ばすことを諦める葛藤を自分が乗り越えられたらいいと思う。両親や近しい人の場合は、その葛藤を乗り越える手助けができたらと思う。ずっしりと重い、だが誰にとっても一度じっくりと考えてみるべき重要な問いかけが含まれた一冊だ。