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人を殺しに、少年たちは二〇〇〇マイルの旅に出る──『東の果て、夜へ』

東の果て、夜へ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

東の果て、夜へ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

麻薬斡旋所で見張り役を任されていた15歳の少年イーストは、ふとした油断から警察のガサ入れを許してしまったばかりに、"家"と"仕事"を同時に失うことになる。やるべきこともいるべき場所も失った少年が代わりに命令されたのは、仲の悪い殺し屋の弟と、同じく若い組織の人間2人を加えた計4人で"一人の男を殺しにいくこと"

標的がいるのは彼らが暮らすロサンゼルスから遠くはなれたウィスコンシン州。その距離片道約2000マイル、キロメートルに換算すれば約3218という膨大な道のりを、彼らは飛行機を使わずに車で、できるかぎり痕跡を残さずに向かうことになる。果たして彼らは無事ターゲットを殺すことができるのか、仲の悪い兄弟の行方は、底辺のガキ共は西の端っこから東の端っこまで、何を思いながら車を運転するのか。

とまあそんな感じの冒頭ではじまる本作はクライム・ノヴェル、ロード・ノヴェルなど複数の側面を併せ持つ作品で、端的にいえばとても心地よい作品だ。著者のビル・ビバリーは本作が小説家のデビュー作ということなので驚いたが、なんでもフロリダ大学英文科の研究者であり、ノンフィクションの著作もある本職なのである。文学研究と実作は大きく異なるが、少なくとも"破格にうまい"理由としては十分である。

ロード・ノヴェルの側面について

さて、というわけで本書で中心となって描かれていくのは暴力の世界に生きる黒人の少年たち。その道中が健やかなるものであるはずもなく、横断しながらそこら中で問題を巻き起こし、"アメリカの風景"を映し出し、名も無き土地を走ってゆく。

 イーストは答えなかった。ジョーク。ちょっとした笑い。マイケル・ウィルソンが本領を発揮している。役割を果たそうとしているのがわかった。リーダとして軽い話を振っている。イーストはふらりとバンの前を通り、巨岩が散らばるアスファルトの駐車場に立ち、まだ建物が建っていない土地を見まわした。遠くで何かが動いた。亡霊か、回転草か。回転草は一度、アニメで見たことがある。それに似ている。漫画の土地みたいな回転草、山と巨岩、どれも名前はない。現実味がない。

こうしたロード・ノヴェルの側面が、実に楽しい。電話ボックスに延々と居座るおばさん、ニューヨークやシリコンバレーのような華やかりし町の風景はほとんどなく、たいした街ではない、それどころか汚らしい風景の素描が、なぜだかとてもしっくりくる。『たいした街ではない。幹線道路沿いに店が二軒ほどあるが、休業しているか、商売っ気がないかのどちらかだった。煙草の吸い殻や吸いさしが吹き飛ばされて、ドアの前に溜まっている。裂けたビニール袋に入った電話帳が腐っている。』

おもしろいのが、はじめのほうにも書いたように、本作はそうした旅だけで終わる物語ではないというところにある。旅の果て、"殺し"の依頼を経た後も物語は続く。旅のはじまりからイーストは数多くのものを失っていくが(家、仕事、部下、仲間、弟とのこれまでの関係──)一度目的地についた後、イーストは再生(あるいは成長)の日々を過ごすことになる。『一からはじめるしかない。十歳のガキと同じように』

兄弟の物語

旅、殺し、脱走、再生とそれぞれの部で大きく違った読み味を残す本作だが、そこに一本の軸を通すのが兄弟の物語としての側面。イーストとその弟のタイは、兄弟でありながらもほぼ関わり合いを持たず、絆は断ち切られ、イーストは弟を理解を超えた子供としてしか捉えることができない。タイは母親のお気に入りで、イーストの人生はいつだって彼に狂わされてきた(と彼は思っている)。疎ましいと思いつつ、いつまで経っても目を離すことができない相反する執着。兄弟であればそう珍しくはない感情ともいえるが、人を殺しにいく兄弟なのだから普通ではない。

おわりに

"車での旅"は作中でいったん終わるが、"人生の旅"は終わらない。少年は成長し、これからどうやって生きるかを決めなければならないのだ。ラストにはミステリ的な種明かし/謎の暴露もあり、"イーストはどのような人生を選ぶのか"、読了後も、ずっと東に続いていく風景が浮かぶ素晴らしい作品だ。