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正確さと著者の声の間で苦悩する校正者の姿を描き出す一冊──『カンマの女王 「ニューヨーカー」校正係のここだけの話 』

カンマの女王 「ニューヨーカー」校正係のここだけの話

カンマの女王 「ニューヨーカー」校正係のここだけの話

校正とは、印刷物などの文章が正しいのか(誤字脱字が存在しないか、文法的に正しいのか、事実に反する内容はないかなど(こちらは校閲ともいう))をチェックする行為のことをさし、大抵の本や雑誌の刊行前には、これが行われていると思っていい。

本書『カンマの女王』は、アメリカの老舗雑誌「THE NEW YOKER」で長年校正係をつとめてきたメアリ・ノリスによる英語での校正についての一冊である。英語で間違えやすい・悩みやすい文法や規則をテーマに、自分のエピソードを添えていく、といった配分であり、英語の文法よもやま話、といった趣が強い。英語についての本なのでどこまで楽しめるかな、と思っていたが、これが抜群におもしろい。

thatとwhichのどちらを使うべきなのか、カンマをどこに入れるのか、「──」の使い方、セミコロンはどのような時に使うべきなのか、そのどれもに文法的、歴史的な「正解」がある一方で、文章とは生きた言葉なのであり、必ずしも従うべきではないケースも多く、そうした文法にまつわる正解と校正者の葛藤が綴られていく。校正者は著者の間違いを指摘したり提案するのが仕事だが、決して著者と敵対する存在ではない。一緒に悩み苦しむ存在なのだ。それも、文法についてはおそらく著者よりもはるかに。そうした苦悩の跡が本書にはあちこちに記されている。

ぶらさがり分詞とジョージ・ソーンダーズ

おもしろいトピックばかりだが、まずぶらさがり分詞*1について語ったところを取り上げたい。たとえば、ノリスはジョージ・ソーンダーズの短篇でこのぶらさがり分詞と相対することになった。問題になった文章はこれ「While picking kids up at school, bumper fell off Park Avenue,」(子供たちを迎えに行ってて、バンパーがパーク・アベニュー(車種のこと)から落っこちた)だが、これはそのまま文法的に解釈してしまうとバンパーが子供たちを迎えに行っていたことになってしまう。もしこれを文法的に正しくするのであれば、While I was picking the kids up at schoolと明確に主語を与えることだが、そうするとこの文章の個性が失われてしまう。

というわけでこの時の文章は直されず、「ママイキ」(修正せずそのまま)になったのだろう。些細な問題で、そんなことどうでもいいと思う人もいるかもしれない。だが、実際にはこうした一つ一つの判断が積み重なって作家の文体、小説の世界観を形作っているわけであって、重要な問題なのである。『まあとにかく、大事なのはスペルではない。言葉だ──正しい言葉を正しく使い、最大の効果をあげることだ。校正者の仕事は単語を正しく綴ること、ハイフンを入れ、ハイフンをとること。そして、スペルのもう1つの意味を大切にすること──作家が唱える魔法を』

性別問題

英語特有の問題としてあげられるのが性別問題だ。性別を問わないで使えるちょうどいい単数の代名詞が存在しない。heにその役割も持たせること、he-sheとかhe/sheといったように二つ併記すること。heesh,ne,nis,nim,hse,ip,ips,ha,hez,hem、といった新しい語を用意すること。複数形のtheyを単数に対しても使うことなど、様々な選択肢が議論の俎上にのぼってきた。今のところ優勢なのはtheyを使用することだ。世間的にもそうだし、『ウェブスター辞典』などにもこの用例が載っている。

著者はこれについて複雑な立場のようだ。校正者としての彼女の仕事は「害を及ぼさないこと」で、保守派である。they、theirを複数形ではなく単数形として使うのは数が犠牲になるので間違っているといい、単数先行詞を指すtheirが原稿にあればhisと提案する。『言いにくいけれども、theirをこうしてhis or herの意味で使う口語は、単純に間違っている。ジェンダー問題は解決するかもしれないし、話し言葉ではすでに優勢なのは疑いの余地がないが、そのためには数が犠牲になる。』

だが、ひとりの人間、書き手、読み手としてはそうした文法的に間違った文章をあえて残す人たちに感心し、馴染んでいったことを受け入れているようだ。この性別問題を扱った章については、文法から少し離れ、著者の弟が自分がトランスセクシュアルだと打ち明けてきた体験談も描かれている。一緒に買い物にいって性別の変化に伴う対応の変化にとまどったり、、女性になったとはいっても何度も「彼」と言ってしまって妹を深く傷つけたりしてしまった難しさが描かれていて、またよかった。

カンマ

英語におけるカンマは日本語における句読点「、」←これに近い役割のものだ。そんなもの著者の好きなリズムで打たせればいいだろ、と思うかもしれないが、これにも用法があり(たとえば、その一文で欠かせない節はカンマでくくろうとすべきではない、カンマをandと入れ替えられる時は、そのカンマはそこにあるべきカンマである、など)、『白鯨』のハーマン・メルヴィルの文章をおいながら、メルヴィルは句読記号を打つのが下手だったか、当時の校正の慣習の犠牲者だったと書いてみせる。

例題をあげて細かくそのカンマの何がおかしいのかを解説されると「たしかにそうかも」と納得できるのだが、メルヴィルの文章を完全に正しいカンマにしたらその息遣いは消えてしまう。『しかし、これだとポストモダンなメルヴィルになってしまう。カンマは飛び起きるための弾みだ。語り手に、立ち上がるための時間をくれる。それに、このすっきりしたバージョンからはメルヴィルの魅力が消えており、絞り尽くした無味乾燥な文という印象を受ける。カンマがもたらすのは浮力である。』

メルヴィルはもう亡くなってしまっているが、現代に生きている作家であれば違和感のあるカンマを使う理由を直接きくことができる。たとえば、本書にはジェームズ・ソルターの一節が引き合いに出される。『Eve was across the room in a thin, burgundy dress that showed the faint outline of her stomach,〈部屋の向こう側にいたイヴの薄手の、赤ワイン色のドレスは彼女の腹部のかすかな輪郭を見せていた。〉』という文章は、読んだらわかるだろうが、イヴの薄手の、赤ワイン色のドレスとドレスを形容している文章の途中で呼吸が入るのに少し違和感がある。

これは校正が見逃したのだろうか? それともあえて著者がこうしたのだろうか? 考察を重ねていく中で最終的に著者はソルターに質問の手紙を出すのだが、結果として返ってきたのは、事前の推測通りで、ドレスの下の腹部の輪郭を強調する意図のものだったという。薄手の赤ワイン色のドレスではダメで、「薄手の」が重要だった。過去、校正者は指摘したが、「ママイキ」にした文章だったのだ。

おわりに

他にも、ハイフンについて、ダッシュ、セミコロン、コロンの使いどころについて、この記事で紹介してきたような細かい部分のやりとり、検証、考察が繰り広げられていく。これを読んでいると文章は生き物だということがよくわかる。ゆらぎ、そのリズムや使い方が異なっている。そこにどれだけの規則・規範を持ち込み、どこからどこまでは著者の「魔法」に委ねるのか──最終判断は著者にあるにせよ、そうしたジレンマのドラマが本書には隅から隅まで埋め込まれている。おもしろかった!

*1:分詞構文の意味上の主語は、主節の主語と同じでなければならないとされるが、時折異なっているものもあり、こうした分詞構文をぶらさがり分詞/懸垂分詞という。文法的に誤りとされることが多いが、文芸作品では使われることがある