基本読書

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柔軟に変化していく、生物のような言語について──『言語はこうして生まれる―「即興する脳」とジェスチャーゲーム―』

この『言語はこうして生まれる』は、その書名通りに言語がどのようにして生まれたのか。そして、一度生まれた言語はどのように変化していくのかについて、言語研究の歴史も辿り直しながら、最新の知見について語っていく一冊になる。

話し言葉は化石に残らないから、具体的にいつ人間が言葉を喋りはじめたと指定できるわけではない。本書では、言語はジェスチャーゲーム(言葉当て遊びであり、共同作業による即興ゲーム)なのではないかと提案し、それを支持する仮説や実証を紹介している。もう少し詳細に説明すれば、ジェスチャーゲームが常に共通の文脈、環境を頼りにして相手の意図を推し量り、意味とサインの繋がりを新しく創造していく過程と、言語の発生と発展の過程は同様のものになるのではないか、というのだ。

言葉でのコミュニケーションを禁じられているジェスチャーゲームが、なぜ逆説的にも言語の仕組みについての深い洞察を明かしてくれるのかがわかるだろう。また、なぜ人間の脳が即興的に、驚くべき速さで言葉の「一手」を打てるのか、なぜ人間は「その場で」意味を生みだせるのか、なぜ言語の豊かで複雑なパターンが生得的な遺伝的青写真や言語本能から生じるのではなく、過去のゲームの何層にもなる積み重ねから生じるのかも説明しよう。

実際、言語はジェスチャーゲームだと考えれば、日常でわれわれが喋っている言葉が変化していく過程も、それが自然発生していく過程も、相当にわかりやすくなる。本書を読むと、言語の起源についての理解が深まるだけでなく、言語が社会と人間にとってどのような意味を持っているのか、新しい言語を学ぶ時に、どのようにするのが効果的なのかといった実際的な知見までわかる、なかなかお得な一冊である。

言語はジェスチャーゲームであり、ジェスチャーゲームは共同作業だ

最初に、「言語はジェスチャーゲーム」について詳しくみていこう。まず、歴史的にいってお互いの言語を理解しない二つの人間集団が接触したことは何度もあった。

そうした時、お互いがお互いの言語を理解していなくても、コミュニケーションが完全に停滞することはない。なぜなら、身振りによって危害を及ぼすつもりはないことを示すことはできるし(18世紀の実例では、棒を振って投げ捨てることで敵意がないことを示していた)食事が食べたいとか飲み物がほしいとかこれは危険ではないとか、たいていのことは伝えられる。そして、一度両者の間で意味とジェスチャーについての合意がとれれば、「徒歩」を表すジェスチャーを「移動」全般に転用したりと、それをさらに発展させて別の意味に繋げることもできる。

ジェスチャーゲームは何も身振り手振りに限った話ではない。たとえば、ある音声を意味と結びつけることもできるから、それは音声版ジェスチャーゲームといえる。言語の起源が発声にあるのか身振り手振りにあるのか、もしくはその両方が混在した状態ではじまったのかはわかりそうにないが、そのどれであるにせよ、言語の発生過程にジェスチャーゲームのような、片方が何らかの動作や発声をして、もう片方がそこに何らかの意味を読みとる──そんなやり取りの繰り返しがあったのではないかというのが本書の中心的なテーマとなっている。

言語はジェスチャーゲームという比喩から導き出せる答えの一つは、当たり前かもしれないが、言語、言葉のやりとりは、必要な情報がまとまったものをただ相手に届ければいい一方的な情報伝達の繰り返しではなく、常に共同作業が必要なものであるということだ。たとえば有名な短文(六単語)物語として、「売ります。赤ん坊の靴。未使用」(For Sale, Baby shoes, Never worn)というものがある。

これが物語に感じられるのは、「”未使用の”赤ん坊の靴」を売るということは、赤ん坊は生まれる前に何らかの理由で死んでしまったからであり、両親は生まれる前からその赤ん坊を待ち望んで靴を買っているような優しい人達だったのだろう──と容易に受け手側が解釈するからだ。もちろん、そうした豊富な情報量は六単語の本文には一切書いていない。われわれは言葉をやりとりする時、常にこうした、言葉の背景にある習慣、常識、前に話したことを前提にして解釈する。

それはたいていの場合うまくいくが、両者の理解の構築がズレていることもあり、その場合は対話相手とやりとりを繰り返しながら誤解を修正していく必要がある。われわれが対話をする時、重要に見える「単語や句や文」は氷山の上に出ている一角に過ぎず、その下には膨大な、それを支える前提情報が存在する(価値観、暗黙のルール、事実敵知識、慣習、規範、しきたり、共感、文化など)。だから、相手に何かを伝えたいと思ったら、見事な文章を組み立てるだけではダメで、伝えたい「相手」がどんな人なのか、どのような文化的背景を持っているかを考える必要がある。

ジェスチャーゲームは本質的に共同作業だ。相手がジェスチャーを始めたら、こちらは終わるのを待たずに即座に推測に入り、その推測にうなずきや微笑みなどの反応を添えることにより、相手のジェスチャーを適宜変更させて「正しい」方向にもっていく。ハウシュ族がエンデバー号の乗組員と出会ったときも、まさに同じようなことが起きていた。信号をやりとりすることで両者は確実に「同じ波長」に乗ることができ、友好的な意図や品物交換への関心を共有できたのである。

言語という生物

各単語や文には本質的な意味や普遍文法があって、それが人間の世界観についての真実を明らかにしてくれる──そうした考えが根強かった時期もあったが、言語ジェスチャーゲーム説からいえばそれは間違いだ。言語が即興ゲームであるならば、その場で意思疎通を成立させることが目的なのであって、通じるのであれば単語の意味が次々と変化してもかまわないし、実際その時々で単語は新しい意味を帯びていく。

言語は本質的に変化して当たり前な、不安定なものなのである。一方で、言語は無秩序に変化を重ねていくわけでもない。たとえば、人は通常の会話で、80秒ごとに発言修正の必要に迫られることが明らかになっている。人間の記憶・認知能力は思っている以上に脆弱で、複雑な文字の連なりを何十秒も記憶していられない。人間は会話を成立させるために、チャタリングなどの細かなテクニックを利用しているのだが、それにも限界があるので、言語はある程度法則を持って秩序化されていく。覚えにくい単語や構文はその言語から消えていき、よく使われる単語はまとめられ、短くなる。

比喩的にいえば、言語は「生物」と同じようなもので、同じように環境に適応してニッチを得なければならない。言語にとってはそのニッチが人間の脳であり、もっと広くとらえれば、脳をつねに持ち運んでいる身体と、脳が社会的に接続している別の脳が集まった共同体である。

言葉の使われ方が変化し、劣化を嘆く人はいつの時代、どの言語にもいるが、言語は修理と調整が必要な機械のようなものではなく、長い時を経て柔軟に進化していく生物のようなものだ。

おわりに

これで本書のごく一部。他にも、先程少し触れた「チャタリング」が実際にどのように行われているのか。子どもがどのように言葉を覚えていくのか。子どもの将来的な語彙量の多さは「耳にする単語の量」が重要なのではなく、能動的に参加した会話に関係してくることを示す研究、言語がどの程度思考に干渉するのか、ChatGPTなども関係してくるGPT-3の限界についてなど、多様なトピックを取り扱っている。文章的にも読みやすい部類だと思うので、興味がある人は手にとって見てね。