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どうすれば相手の意見を変えられるのか──『エビデンスを嫌う人たち: 科学否定論者は何を考え、どう説得できるのか?』

この『エビデンスを嫌う人たち』は、『「科学的に正しい」とは何か』の邦訳が先日刊行された気鋭の哲学者リー・マッキンタイアによる「科学否定論者を説得するための方法」についての一冊である。科学否定論者とは、たとえば人為的な気候変動は起こっていないと主張する気候変動否定者に、反ワクチン、反コロナ、果てには地球は平面だと主張する地球平面説を支持している人らのことを指している。

こうした科学否定論者に共通点は存在するのか。また、彼らにエビデンスを提供することでその考えを変えることができるのか。エビデンスを提供するといっても、どのように提供するのが最も効果的なのか。エビデンスで人の意見が変えられないのだとしたら、他に変える方法はあるのかを、様々な研究をもとにして紹介する──だけでなく、そうした理論を武器として、著者自身が科学否定論者らと対話におもむいて、「人の意見を変える」ことにチャレンジしていく構成になっている。

最初は地球平面支持者たちの国際会議に直接乗り込み、ほぼ喧嘩腰で論争を挑んでいくので客観的にみるとけっこうヤバいやつなのだが、科学否定論者らの観察や「考えを変える」研究や手法に触れていくにつれ、次第に人の考え方を変えようと思ったら、まず相手にたいして敬意を持ち、信頼関係を構築する必要があるという結論に至り、時間をかけた対話に移行していく過程が描かれている。

そもそも人の考えを変えようなどと思うこと自体おこがましい、みんな自分の信じたいことを信じて生きていけばよい、という考えもあるだろうし、個人にしか関係しない分野であるならそれも正しい。だが、実際にはワクチンから気候変動まで、特定の行動をとらないことで他者に影響が出るケースは数多くあり、専門家の意見の一致と反した情報を心から信じている人々を説得できるのであれば、その価値も大きい。

何しろ、地球は平らだと主張する地球平面説でさえも現在再度流行しつつあるのだ。現在参入している地球平面説支持者はほとんどがYouTube経由だという。現代は、反論するものがいなければ、誤情報は広まっていく時代なのだ。

また、本書で提唱される「相手の意見を変えたければ、敬意を持って、信頼関係の構築から始める必要がある」は、分断が発生しがちな現代、特にインターネットにおいては、相手が科学否定者か否かに関係なく重要といえる。本書を読めば、敬意を持った対話がどれほどの効果を生み出すのか、その意味がよくわかるはずだ。

どうすれば相手の意見を変えられるのか

さて、「どうすれば相手の意見を変えられるのか」の答えは先に出してしまったが、「時間をかけた信頼関係の構築と、敬意を持って行う粘り強い説明」だ。

実際に意見を変えたという人の体験談を読んでも──本書には無数にでてくる──そのどれもが身近な信頼できる人からポジティブな影響を受けたという報告がセットになっている。たとえば、2019年にワシントン州クラーク郡で麻疹が流行したときには、公衆衛生の専門家が各地に派遣された。その時、専門家たちは子供たちの親と一対一、小グループでじっくりと質問に答える面談をして、それはときに数時間にも及ぶことがあったという。その結果ある女性は、医師がホワイトボードに図を描いて細胞の働きを説明するなどしながら二時間以上にもわたって質問に答えてくれたので、それまでの考えを捨てて子供にワクチンを接種させる決心をしたと語っている。

重要なのは、フラットアーサーでも何でも、みなそれぞれの理由や経緯があってある主張に至っていることを正しく認識することだ。たとえば人が科学否定に至る経緯は複数あるが、一つは個人の動機に起因したものがある。がんは放置すればいい、などの主張をもし心から信じることができたのならば、いっときでも苦しい治療をする必要からも解放されて、死の恐怖を忘れさせてくれる効果がある。

人間は恐怖に強く反応するから、子供が生まれたばかりの夫婦が赤ん坊にワクチンは有害だという噂をきいたら心配にもなるだろう。そうした時に不安や疑念を身近な人や医師に伝えて、バカにされたりと激しく否定的な態度をとられた場合、彼らは反感を覚え、反ワクチン派の会合に足を運ぶようになるかもしれない(し実例も多い)。

著者は最初にフラットアースの国際会議に出て、様々な人と対話を重ねていくが、そこには人生にトラウマを抱えた人、傷ついた人が不自然なほど多かったという。心が傷ついた人々にとって、フラットアースを信じることは、傷を癒やすことにも繋がる。たとえば、世界でほとんどの人が地球が球体だというフェイクに騙されているが、自分のような少数の人間だけは世界の真実に気がついているというように、『マトリック』のネオの如く、地球平面説が自分を特別な存在に変えてくれるからだ。

こうした動機があって科学否定に走っていたり、自分のアイデンティティと科学否定が一体化している人達に、事実をただ突きつけても意味はない。事実かどうかは無関係だからだ。しかし、科学者はこれをやりがちである。

 気候変動否定論者が「一九九八年以降、地球の気温は上がっていない」と言えば、科学者はさらなるデータを提供した。それに疑いを向けられると、それじゃあと、海水減少のデータを提供した。次にそれすらも疑われると、今度はまた別のデータを提供した。こんなことが続けば、相手を非合理と見限って、そのまま立ち去ることがあっても不思議ではない。証拠を見せても納得できないのであれば、それ以上対話を続けてなんになるというのか? だが、もし問題の原因が情報不足でなかったらどうだろう? そうふるまってしまう原因が、実はアイデンティティを守るためだったとしたら?(p.113)

だから、彼らがなぜそうした意見を持っているのかに耳を傾け、不安があるのなら不安に寄り添い、信頼関係を構築し、対話を重ねていく必要があるのだ──というわけなのだが、一方で本書にはこの点に関して微妙な点がある。それが「時間をかけた対話が相手の信念を変えることを裏付ける実証研究」が存在しないことだ。

この問題点は著者自身もはっきり認めている。

 科学に深い敬意を抱いている哲学者として、こうした推測を裏づける実証研究の例を挙げられないことには忸怩たる思いがある。だがその一方で、マイケル・シャーマーやスティーブン・ルワンドウスキーなど、この種の議論を研究してきた人たちが、ボゴジアンとリンゼイの助言を支持しているのも確かであり、私はその事実を心強く感じている。ボゴジアンらの助言とは次のようなものだった──誰かの意見を変えたければ、直接会って敬意をもって会話を交わすのが最善の方法だ。それがどんなトピックであれ。(p.163)

科学の重要性を説く本書の中心的な主張で実証研究の例が挙げられないのはどれほど経験則的に正しくとも致命的に思うが、この正直な態度は科学的であるとはいえるかもしれない。

おわりに

本書で主に焦点があたっているのは「科学否定にどっぷりと浸かった人の意見を変えること」であるけれど、実際の人々の科学否定の状態にはグラデーションがある。誤情報の拡散を防ぐという観点だけでみるならば、重要なのは「どっぷり浸かった人」の意見を変えることではなく、そもそも予防的な啓蒙や初期の介入の方だ。比重はそこまで重くないが、本書にはそうした観点からの論述もある(こっちは研究もある)。

また、人の意見を変える方法も時間をかけた対話だけではなくて──と、「データを提示して意見を変える」ケースについても記載はあって、先に書いた弱点こそあるものの懐の深い本なので、よかったら読んでみてね。そして、できれば、この記事を読んだ人にも、自分と意見が著しく異なっているからといって相手をバカにしたり、罵ったり、敬意を欠いた態度をとらないで欲しいと願う。

僕も完璧ではないが、できるかぎりやっていくので。