基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

海に住む少女/シュペルヴィエル

独特な雰囲気が漂う10個の短編を収録。こんなフランス版宮沢賢治、なんて言葉で説明されているが妥当と感じるかどうかは読む人によるだろう。確かに読んだことのない人間に伝えるには、大まかな部分は伝えることに成功しているが、読んだらはじめて違いに気がつくだろう。適切か、適切じゃないかの問題ではなく一度手に取ってみたくなる表現ではある。たった180頁程しかないのに、10個も短編が入っている。中にはショートショートといっていい長さのものも入っているが、どれもこれも共通した点は、普段と変わりない世界をちょっと違う角度から見てみる、そんな感覚である。ノアの箱舟なんかも、実際にあったらこんな風になるだろうなと笑える風味であるし、イエス生誕の時近くにいた牛の自己犠牲を書いた作品も、題材からしてすでに角度がおかしい。まぁもっともこの二つの短編は個人的にはなんら面白くはなかったが。牛がイエスのために自己犠牲の精神を発揮してどうなろうが個人的にはどうでもいい気分である。そりゃあ、丁寧に世話して絆が深まった豚やら牛やらを食っちまう、なんていう鬼畜教育の元に育ったら、この牛が可哀そうになるのかもしれない。もしくはなんだって置き換えて考えればいいのだろう。牛だとか人間だとかに惑わされずに、ただ名前が牛とついている存在なのだと考えるようにすれば。ノアの箱舟が面白くないと思ったのは、何故だろうか。確かに目の付けどころは非常に面白い。ライオンは優しいし、飯をよこせとみんなが叫び始めるし、舟の内部で恐怖のゼロサムゲームが始まるのじゃないかなんていう不安も確かに、とうなずけるものだ。しかし話がそのまんまノアの箱舟であって、違うところが全くない。いやそりゃ箱舟が沈没したりなんかしたらキリストだって怒るだろうが、そのまんま聖書通りの展開だとどうにもこうにも。聖書読めばいいやん、と思ってしまった。まぁこの聖書を題材にした二つの短編が個人的にいまいちだっただけで、他のはとてもよかった。

中でもひときわ目立っていたのはやはり表題作になっている、海に住む少女だろう。たった一人で幻想的な世界に住む少女の話なのだ。少女以外に一人も人はいなく、写真には兵隊と少女がうつっている。ゴハンは勝手に出てくるし、他に人間がいるなんてことは想像もしないで一人でのんびり楽しくやっているかと思いきや、船が通りかかった時に思わず助けて! と叫んでしまうところなど、無性に寂しくなってくる。波は思考し、行動するしこの人の書く話は平然と小石とか、無機物に意志を与えてしまう。それが全く違和感ではなく、世界観に溶け込んでいるのが心地良い。オチもたいしたことないのだが、雰囲気は天下逸品。

一つ一つ書いていきたいところではあるが、10個はさすがにつらいので気に入ったのだけ。
足跡と沼には笑わせてもらった。家に物を売りにきた商人の、剃刀がどうしても欲しくて殺してしまうのだがそのまま何事もなかったかのように川に放り込みに行く。浮かんできたので家族総出で重しをつけて、交代で浮かんできていないかどうか見張りに行く。そこまでしたのに結局警官がやってきてつかまってしまう。殺害現場を見られた覚えはないかと聞かれて

「ああ、セニョール、犬が見てましたっけ」

ここまでに何度も牛がしゃべったり波がしゃべったり小石が喋ったりする短編を読んできたので、ひょっとしたらこの世界も犬が喋るのではないかと思って最初は笑ったのだが、よくかんがえてみたらタイトルでネタバレしている。足跡をたどって行って判明したのだろう。まぁそもそも発見者が何人もいるのだからそちらからバレたのかもしれないが。

牛乳のお椀
たった三頁しかないショートショートだがインパクトは海に住む少女と同じぐらいである。例外的に警句のような締めで終わっている。

 人々が道を行き交います。彼らはいつも、きちんとした理由があって、点から別の地点へと向かっているのでしょうか。
 確かに、何人か呼び止めて聞いてみたとしたら、人々は「仕事に行く途中だ」「薬局に行くんだ」などと答えるでしょう。でも、もし、本当に訊ねてみたら、答えられずに困惑する人もいるのではないでしょうか。毎日同じ時刻に、どんな天気の日でも、同じ行為を繰り返さずにはいられない、この可哀想な青年のように。

この短い文章でも、シュペルヴィエルの異常さが際立っているのではないか。どこか捉えどころのない雰囲気を確かに持っている。この忙しそうに動いている人たちって本当にみんな目的地があって動いているのかな? という問いは、田舎から出てきた人間がはじめて東京に来た時にする質問のテンプレートのようになっている。と個人的には思っている。おもに小説やら漫画やらの世界だけだが。