基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

伊坂幸太郎は何故これほど人気なのか。

伊坂幸太郎は凄い。今日本で一、二を争う売れっ子小説家といっていいだろう。著作の半分近くの七作が映画化され、いくつかの作品は漫画化もされている。もう一人のライバルは言うまでもなく東野圭吾で、売れているからにはこの二人にはそれなりに、受け入れられる理由があるだろうと思うわけである。さて、伊坂幸太郎が持っている他の人間には持っていない特別なところとはどこであろうか。文章はそれほど優れているとは思えない。会話は確かに映画を思わせるほどテンポが良く、やたらとかっこいいセリフを連発し一瞬でインパクトを与えていく。だがそれだけではない。持ち味としては一級品だが、武器として特化されていない。じゃあ武器とは何なのだといえば、それは言うまでもなく全ての伏線が収束していくラストの大どんでん返しである。伊坂幸太郎の一部の隙もなく回収されていく伏線に初めて触れた人は思わず感嘆の息をもらすであろう。それ程の職人技である。

どんでん返し

伊坂幸太郎の物語には無駄な部分が一切なく、少しでもアレ? っと思ったらそれは最後にちゃんと回収される。どこのインタビューで読んだのか忘れてしまったけれど、伊坂幸太郎は一度作品を書きあげた後に大幅な修正、もしくはそれを踏まえて全くの書きなおしを行うという。そういった地道な作業の上で伏線回収を行っていく。

こういった緻密などんでん返しというものに人は惹かれるのではないかと、少し考えてみた。キャラクターがいてどんでん返しがあるというよりも、どんでん返しがあってそこからキャラクターが配置されている、という印象をどの作品からも受けるのだ。裏を返せばキャラクターに深みがない、役割を果たすだけの駒だ、ということになってしまうのだがそもそも物語、特にエンターテイメント作品に限って言えばいかに駒をうまく配置し、いかに面白いと言われているパターンを組み合わせるかというだけのものである。内面の描写などそういう難しいことは文学書きがやればいいことであって、大多数の人は伊坂幸太郎の気軽に読めて、どんでん返しのカタルシスに酔いしれるというシンプルな面白さを喜ぶ。というよりも、どんでん返しというのは確実に面白い。たとえば人を泣かすストーリーを作るのは簡単だ、と多くの小説家、漫画家は言っている。確かに泣ける2ちゃんねるなどを読むと短い文章なのにむしょうに悲しくなる話がある。しかし一気に大量に読むとある種のパターンが見えてくるのである。見えてくるといっても悲しくなったり泣いてしまったりするのはほとんど条件反射といっていいレベルで刷り込まれている。基本的に泣けるパターンはすでに決まっていて、パターンがある? 萎えるわーとならないのは組み合わせは作者の個性によって決定されるからである。ある部分を掘り下げてみたり、あるいは泣けるパターンを幾つも組み合わせてみたり。パターンは無限大である。

自分は伊坂作品を短い期間で一気に読んだせいか、最後の方ではどんでん返しが起こることがわかりきっていながらも作品を楽しんでいた。さすがに第一作目を読んだときの衝撃は超えられないうえに、二作三作と読むたびに衝撃は薄くなっていくのだが、面白さは変わらないのだ。多分幅広い層に受けているのはこのどんでん返しがあるからなのだろうと推測するわけである。東野圭吾の作品も、ミステリーという媒体上当然ながら最後に大抵はどんでん返しが仕掛けられている。ミステリーの醍醐味といえば誰も考えつかなかったトリック、意外な真相などがあげられるが今も幅広い層にミステリーが受け入れられているのはどんでん返しという万人に受け入れられるフォーマットで出来ているからではないだろうか。東野伊坂共によく言われる批判として、物事の上っ面だけしか書けていない、というものがある。多分彼らは最初からそんなことに執着していないのだろう。意外な真相、意外な謎、この二つを生み出すことに全力を注ぎこんでいる。そしてそれはなんだかんだいって面白いのだ。

さらにいえば人気の出る条件として映像化されるというのはいいきっかけになる。そう言った意味では映像化されやすい作品を作っている、というのも人気の一つと言っていい。物事の上っ面だけしか書けていない(書いていない)というのは実はここで生きてきて、内面の深い所や思想的な部分にばかり凝っていたらいつまでたっても映像化なんてしてもらえない。また最初に書いたような、映画を彷彿とさせるテンポのよい会話、一瞬でインパクトを与えるセリフ、こういった要素が短い時間で色々なことを表現しなければいけない映画という媒体に数多く受け入れられている理由だろうと思う。