基本読書

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屍者の帝国(ネタバレなしSIDE)

いまさら説明するのも野暮なほど有名になってしまった感があるが、今は亡き伊藤計劃が書いた30枚ほどの遺稿『屍者の帝国』をその盟友である円城塔が物語を書き継ぎ、完成させたものが本書である。本書は出版される敬意そのものが極上の物語であって、物語を読む前に物語が出来上がっていることも話題を盛り上げている一因になっているし、当然読みもそのようなメタ的な情報を含んだものになる。

さてはて実際の出来はといえば、これがまた凄い。プロローグには伊藤計劃が書き残した30ページほどがそのまま使われており、その後に円城塔先生が書いた『屍者の帝国』が続く。文体は「長い物語」を語る方向へ変化しているものの、円城塔らしさもまた残されている(この辺はまたちょっと微妙なんだけどね。後述)。まあ、どんなに消そうとしても現れてしまうものこそがその人固有の文体というものだろう。

元々伊藤計劃先生と円城塔先生の物語の作り方、文体までまるっきり違うのだけれども、少なくとも物語の作り方は伊藤計劃先生の方に合わせている。そしてそれは本作を小説として退屈なものにしていると僕は思う。二人の作風で違うのはどこかというところは本人達の対談から引用したほうがわかりやすい。引用元は『伊藤計劃記録』から。

伊藤 でも構造って考えるのが大変だと思うんですよ。円城さんは、僕が消費している装飾部分の代わりに、構造を消費しているので、時々恐ろしくなるんです。みんな頑張ってひとつの家を建ててるのに、円城さんは次々と家を建てては潰していっているようで、この人ほんとに大丈夫なのか、って心配になる時がある(笑)。

円城塔先生は構造を消費し、構造を連ねていく作家で、伊藤計劃先生はひとつのストーリーの幹(構造)にひたすら装飾をしていく作家という区別は有効だろうと思う。

円城 描写するとかって疲れるじゃないですか、単純に。僕は捉え方がすべて紋切型なので、出てくるのは「草っ原」とか「木が生えてる」とか「青空」とか、漠然としたものばかりなんですよ。『虐殺器官』はすべてディテールが決まってるじゃないですか。僕にはできないんですよね。その場にいる人の数とかを考えたくない。

伊藤 人や組織の名前を考えてるときが一番楽しいんです。架空の名前が出てくるのが気持ちいい。それが装飾性だと思うんですけど。

なんというか、本作が発売されるまでの流れがすでに感動的な物語に仕上がっていることもあって「傑作だ!」以外の意見が言いづらい状況。この小説が出版されたこと自体が物語であるならば、この小説は傑作であるべきだという考えが僕にもある。そんな状況で書きづらいのだが、本作はこの円城塔先生ができないといっていることをやっていて、すごく読みづらいし、退屈だ。

話の展開のさせ方はミステリィで探偵が最後にやる「実は真相はこうだったんだよ!」という長舌をふるう形で展開して、しかもそれが一回ならいいんだけどほぼ毎回それなので、ウザくなる。コナン君が冒頭からずっと「こうだったんだよ!」って言い続けてたらウザいでしょ?

諸国漫遊する作品なので、そのたびにがんばってディテールを描写しているのはわかるが、少し動きがあるとその度に別々のコナン君が真相を語り始めるので、物語としてのリズムは乱れ、読むのがつらい。僕はずっとこの物語を読んでいる時に「苦しみながら書いている円城塔先生」の姿が目に浮かぶようだったが、自分の持ち味ではない部分(ディテールを埋めていく)を必死にこなそうとしていたからなのだと思う。

めちゃくちゃけなすじゃねえか、全然つまらねえのか、と思ったかもしれないがそんなことはないのでまだ帰らないで欲しい。

ディテールは微妙だったかもしれないが、それでもすべてがつまらないわけではない。行動としての描写にも読んでいて面白い部分はところどころある。そして長々と説明されるのを延々と読み続けるのは苦痛だが思弁的小説として読めば普通だし、その読みが正統だろうと思う。そしてその部分としてのクォリティはわりと高い。

19世紀末という超速の変化が始まりつつあるカオスな時代と歴史上の人物と創作上の多種多様なキャラクターが入り乱れるカオスさがこの物語の特徴のひとつだ。もういない人間について語ることが歴史であってそれこそが意識なら歴史上の人物もフィクションの人物も同じだよね、っていう論理で屍者の帝国ではフィクションと歴史上の人物が同列に語られている、のだと思う。

もうひとつの特徴は伊藤計劃が前作『ハーモニー』で刈り取ってしまった意識の後始末ともいえる(笑)テーマを一歩先に進めていく部分。その二つを簡単にこのネタバレなしSIDEでは紹介する(思いの外ながくなってしまったので、あとでネタバレ有りSIDEを書く)。

ちなみに屍者の帝国特設サイトでは円城塔先生のあとがきに代えた文章が読める。⇒屍者の帝国 伊藤計劃×円城塔 | 河出書房新社 テーマを一歩先へ進めるといった部分で、気になるところを引用させてもらいます。

しかし、『虐殺器官』で言葉による人間社会の崩壊を、『ハーモニー』で人間の意識自体の喪失を描いた伊藤計劃が、「死んでしまった人間を労働力とする」物語を構想した以上、その先へと進もうとする意図を読み取らずにいることはとても難しいのです。また、その脈絡を受け入れない限り、わたしが『屍者の帝国』の続きを書くという仕事を受ける意味はないとも考えました。なぜなら、『屍者の帝国』の続きを書くということはそのまま、「死者を働かせ続ける」作業となるに決まっているからです。偶然にも与えられたこの図式を最大限に活かすことが、わたしの作業目標になりました。

少し前に日本の大SF作家である神林長平先生が出された短篇集『いま集合的無意識を、』の中で、意識自体の消失を書いた伊藤計劃は次を考えていたのだと語る場面がある。『いや、彼が考えていたのは、もっと先だ。知能と意識の次には、なにが出てくるのだろう、ということだ。』ハーモニーのSF的アイデアは知能と意識を分離させた点にあり、だからこそその次にくるのは「知能と意識」の次にくるものは何かという点だった。

そして屍者の帝国がその設定からして、「死者がソフトウェアをインストールすることにより動き出す世界」とするならば、これは知能と意識が喪失したハーモニー以後の話であり、知能と意識が喪失した世界で次に何が来るのかを語るはずだったのではないかと想像してしまうのに無理はない。実際ただのエンターテイメントにしようとしたとしても、自然と矛先はこちらを向いてしまったのではないかと想像する。

引用部に戻るけれど、「しかし」の前にあるのは、本書は伊藤計劃氏によって構想された時はエンターテイメント作品を志向されていて、狭義のSFですらなかったということだ。しかしながらしかしとついている以上円城塔はこれを虐殺器官とハーモニーに連なる思弁的な「意識をめぐる物語」として書いていることで、SFであることから逃れられなくなっている。それにしても意識の先とはなんなのか。それは是非読んで確かめていただきたい。

「意識」というテーマから少し離れてみると、本作で要注目なのは先ほど少し触れた「混沌」とした点。あとがきに代えて、でも語られているようにこの『屍者の帝国』に書かれた時代は19世紀末であり、『車や飛行機の登場まであと少し。瓦斯灯が電灯に置きかわるまであと一歩、無線や電話の普及ももうすぐです。世界的な電信網は間もなく世界一周を終えるところでした。』とある。

世界は変化の真っ最中だ。そんな時代を、語り手であるワトソンはめぐる。もちろん「混沌」はそれだけではなく、実在する歴史上の人物、創作上のキャラクタたちが入り乱れる世界というのも、よりいっそうこの物語を複雑なものにしている。「元ネタ一覧をよこせ!」「参考文献を! 参考文献をよこせ!」と慌てふためく読者たちの姿が、容易に予想できる(僕もまたそうなった)。

これらの要素は「意識」をめぐるテーマに密接に絡んでいき、結末には必ず唖然とするはずだ。本書の構造に、物語の物語の物語といった仕掛けがひそんでいて、それは卑怯でしょうと読み終えて思う。僕は正直言って、最後まで読んだらボロ泣きしちゃったよ(あんなにけなしといてよくいうよ)。

屍者の帝国

屍者の帝国