基本読書

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大塚英志『物語消費論改 (アスキー新書 228)』

物語消費論をWeb以降の文脈の中で検証し精算するために書かれたという本書。そうかだから改ってついているのか。暇だったので適当に手にとったのですが(僕が大塚英志さんの本を手に取るのは大抵日常の隙間にふっと眼に入ってきた時なのです)、物語消費論は読んだことなかったので再録されているものなどを読んだら、新鮮でした。

物語消費論について簡単にまとめておくと、最初に「物語消費論とは本質的にプロパガンダの理論であった」というように物語をどうやって人に与えるのかの理論であるようだ。ビックリマンチョコのシールの話がわかりやすいが、あれは元ネタが何もない状態でチョコに入っているシールに貼ってあるキャラクターという情報の断片を読み手が勝手に統合することによってひとつの世界観を構築する。

このような断片から世界観を構築したい、世界観の全体を知りたいという欲望が生まれ様々な媒体、商品を欲しがる欲望を生み出すのが物語消費論なのです。さらにはこの物語消費は一定の段階に達すると「創作行為」や「社会的運動」を擬態するケースがあるといいます。そのような二次創作が出ることによって、さらに情報は断片化しそれ自体がまたプロパガンダとして機能する。

受け手が自発的に物語を構築していってくれるわけで、仕掛けている側がいるとすればたいへんけっこうな事態でしょう。それが物語消費論として書かれてきたものだったわけですけど、「改」として、また「Web以降」としてその後の展開を見るに「仕掛けている側がいない、プロパガンダの時代」がきているのだというのが「その先」の展開です。

webが新たにもたらしたものは、第四の権力としてのメディアを含む既存の権力が「ユーザー」に支配される、という独裁者不在のファシズムだ。

かつて「物語消費論」の中で示した、<自らが情報の断片をつなぎ合わせわかり易いストーリーと世界像を捏造して自己増殖していく欲望>は、コンテンツ産業の枠内で行われる限り、それは消費行為としてのみある。しかし、webという新しい環境と結びついた時、それは主体的な権力を生成するシステムに容易に転じる。webの登場は仮説モデルにすぎなかった物語消費論をより徹底して実践可能にし、そのリスクを顕在化する環境としてある、とぼくは今、感じる。

まだ実感としては理解していないけれど、物語消費論的な二次創作の自己増殖が「コンテンツ」の枠を超えて「愛国」だとか「日本」だとか「原発問題」だとかいった「大きな物語」に対象を広げていて、その中に自分の内面を二次創作的に同期させていく。空虚な言葉に自分の意見(それも借り物でしかない)を入れて自分たちで自分たちを動員させている。

だからこそ脱原発を提唱しながら非核三原則や原潜、あるいは電力不足に備えての現実的な試算、代替物まで含めてまあいわゆる「歴史的な背景・広がり」「その後の展開」にまで興味がまったく向いていないっていうことなんでしょうね。反原発の物語があれだけ描かれてきながらも、原発事故が起こってしまったのも本書の文脈で言えば「寓話」が現実から切り離されたことに一端がある。

「寓話が機能不全を起こした」と何度も語られるように。現代にあっては寓話からすっきりそのまま「歴史」と「未来」が抜け落ちているわけで。こういった話を「サーガ」が無時間化・無国籍化して歴史から切り離された「大きな物語」として機能するようになった流れとして解説していくのが本書の流れなわけです。

作品を一定の流れに沿って並べて、検証していくのは意味があるのだろうと思う一方、個人的に読んでいて退屈なのですけど(批評用語がばりばり出てきて何いってんのか全然わかんないし)村上春樹やヤマトの描いたサーガが送り手・受け手双方が脱・歴史化(現実の文脈で物語を捉えない)したっていう話はなかなか面白かったです。

まあ……たしかに? 大塚英志さんにいわせれば八十年代以降のサブカルチャーは「仮想の歴史」に逃亡し、現実を何も反映しないまま物語構造のみが特化していったという。webの存在もあるし、現実を反映しない妄想ともいえる中で空虚な言葉を自己増殖させてきたイメージで捉えているけれど、だいたい外れてないだろう。

大塚英志さんはこのような状況を「錯誤」と呼ぶ。サブカルチャー分析の流れだけで言うと「へーそうなんだ」で終わってしまう。しかしそれが今の「日本」「愛国」「脱原発」などといったワードに結びつき、背景のないワタシを語り、物語消費論的な自己言及・自己増殖の大衆による大衆の動員が起こっているとすれば、それは確かにその通りだろうと思う。狂騒状態といえる。

やたらと扇動的な文章なので難しく、大きなことを語っているように思えその実質的な意味をとるのが難しいけど、単純化してしまえば「勝手なドラマを頭の中でつくり上げるな」という話ではないか。その源泉にあるのはwebにおける責任者不在のプロパガンダであり大衆自らが行う大衆扇動だ。ネットには断片的な情報が散らばっていて自分の好きな物語をそこに見出すことが可能だが、そうした「物語」は自分自身で制御されなくてはならない。

物語消費論改 (アスキー新書)

物語消費論改 (アスキー新書)