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被創造物が創造者となる時──『風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake?』

風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake? (講談社タイガ)

風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake? (講談社タイガ)

森博嗣さんによるWシリーズの三作目である。

もともとSFとしては非常にマイナーな、細かな領域をついてきているこのWシリーズだが、三作目はそこをさらに緻密にしてみせた感じで、ずいぶんと盛り上がる。

「これまで見えていた、当たり前の世界」がある新しい知識・世界観の導入によって「まったく違う景色となる」ことが世の中にはある。SFでたとえるなら、まわりの友人らが人間だと思っていたら実は皆プログラムに制御された機械だった──というような感じだ。変わっていないのに、景色が変わる。本シリーズはそんな「知識の導入によって、世界の見え方がガラッと切り替わる瞬間」を丹念にすくい取っている。

世界観の簡単な説明

時代はおそらく23世紀頃、この世界では人間の寿命は細胞を刷新することで飛躍的にのびており、ウォーカロンと呼ばれる人工細胞でつくられた生命体が広く行き渡っている。人間が滅多に死ななくなったのはいいが、それと相関するようになぜか子供が生まれなくなってしまう。「それはなぜなのか?」が明かされたのが第一作『彼女は一人で歩くのか?』であり、その結果を受け、それでもこの世界に子供が生まれている一部の状況が描かれたのが第二作『魔法の色を知っているか?』であった。

物語の中心となるハギリという研究者は、人間と簡単には見分けがつかないウォーカロンを判別できるようにする研究をしており、その結果として一作目と二作目では事件に巻き込まれる羽目になった。本書ではハギリはこの研究において子供のデータが足りず精度の甘かった子供たちの測定を行い、精度を高めていくのと同時にウォーカロンに関する新たな情報を得ることでさらなる研究の応用可能性に気がつくが──。

というあたりがあらすじということになるか。「なぜ子供が生まれなくなってしまったのか」が明かされた際には「そうきたか!」と純粋に驚いたけれども、今回はそれ以上の衝撃だ。いっけんしたところすごく地味な話ではあるが、世界の各地で起こっているテロの理屈になりえる部分であったり、「この世界の背景」に関する理屈が多く開示された重要巻だったように思う。世界の見方が変わる──というよりかは、世界がより広かった、限界だと思っていた部分にさらに先があった、という感じか。

非破壊でウォーカロンと人間を区別できるハギリの技術は、最初正直いって(SF的には)地味な部分だなと思っていたのが(地味なのを詳細に詰めて描いていくのがおもしろかったのだけど)、真相が明らかになるにつれ世界の行く末を左右しかねないほどに重要性を増していくのが、物語の進め方としておもしろい。

彼らだって、自分を作りたくなるのではないかな

個人的に今作で浮かび上がってきた、今後に大いに期待が持てる/繋がる興味深い問いかけの一つは、「ウォーカロンは、自分を作るのか?」だ。『「それに……」ヴォッシュは髭を指で撫でた。「考えてもみたまえ。人間は人間を作ろうとしたんだ。ウォーカロンが人間に近づけば、彼らだって、自分を作りたくなるのではないかな」』

ウォーカロンは現状、自由な存在とは言いがたい。既存の文化への反発は許されない──と教育されている。人間側からしても、自分たちが作った存在だという自負があるから、それを許さないだろう。しかし、人類は年老いている。ウォーカロンは若く、子供を産むように設計することさえできるだろう。僕がこの問いかけが重要に思えるのは、ウォーカロンに対して、創造者である人間からの「セーフティネット」が存在するとして──ウォーカロン自身が人間に予想もつかない「創造」をはじめた時に、その時はじめてウォーカロンは人間から自由になるのではないかと思うからだ。

その時ウォーカロンはウォーカロンならではの道をゆくのか? それとも人間とウォーカロンの境界線はなくなり、両者は溶け合っていくのか? といえば、今はまだわからない(ウォーカロンは自分を作るのか、という問いかけも今後に繋がるかどうかはわからない)。まだまだ先がありそうだなと思わせる「世界の広げ方」がされた巻であっただけに、しばらくこのシリーズが続くのが嬉しくてたまらない!

以下、本書には過去作との関連がけっこう出てきたのでいったん整理してみる。他シリーズについても全般的にネタバレかも。僕も思い違いや記載漏れなど多いので気が付いたらコメントなりなんなりで指摘いただけたら確認して追記していきます。

百年シリーズとの関連

いくらか目についたのを整理しておこう。

「目にすれば失い、口にすれば果てる」、人体冷凍によって死を先送りにしようとした人々、カンマパ・デボラ・スホ(ルナティック・シティにいた王家の人々との血縁関係か)などいくつもの符合からナクチェ=ルナティック・シティ(女王の百年密室)。遺跡はモン・ロゼ(迷宮百年の睡魔)。砂の曼荼羅モチーフなどは『迷宮百年の睡魔』や『赤目姫の潮解』と同一。最後に出てきた機械的な応答を繰り返すシステムは次作のタイトルにも入っているデボラかな(初出は『すべてがFになる』だっけ)。

ウォーカロンは当然ながら百年シリーズでいろいろと描写されているわけだけど、将来のことを予見するような文章が多々ある。僕は先に「ウォーカロンならではの道をゆくのか?」と書いたけれども、本書『風は青海を渡るのか? The Wind Across Qinghai Lake?』でもウォーカロンが部分的に人間になってきている──という描写があったように基本的にはウォーカロンが人間になる方向なのだろう。

『迷宮百年の睡魔』では街の人々のうちのどれぐらいが頭脳分離されているのかとメグツシュカに問い、『(……)いずれは、世界の全人口の何割がウォーカロンか。人間の躰のうち何%が人造か、人格のうち何人が直系のボディを持つのか、そういった問がすべて、無意味なものになるでしょう」』と答えを得ている。

『赤目姫の潮解』の時代

百年シリーズ最終作である『赤目姫の潮解』は、「森作品の中で時系列的にはどこに入るんだ」と疑問がある。ひょっとしたら考察班の人たちの中では答えが出ているのかもしれないが僕にはわからない(ので出ているのなら教えてほしいが)。

具体的に描写を拾えば、赤目姫最終章であるフォーハンドレッドシーズンズでは「自分自身が人形でないことは確かめられないが、破壊すれば区別をつけられる。ただし、それに意味などあるのか」と問答が繰り広げられている。非破壊で確かめることができないという点を取り上げればWシリーズ以前ともいえるし、自分自身が人形であるかどうかさえわからないほど人類とウォーカロンが一体化してしまって、ハギリの技術でも判別が不可能なほど進展したWシリーズの未来であるともいえる。

『赤目姫の潮解』で起こっている一連の異変はかなり大きなものだと思われるので、その類の話が一切Wシリーズの中に出てこないことを「不自然」と捉えた場合は*1赤目姫の潮解の方がより未来の話であるとした方が説得力はある。

ただ、赤目姫の潮解はどこか特定の時系列に「おさめる」必要があるのかという疑問がある。たとえば本書(風は〜)の中には『「このあたりは、百年ほどまえに干上がった湖です」とドレクスラが説明した。「二百年まえには、この地域は川も湖も、どちらへ行ってもあったのですが、あっという間に環境が変わってしまいました」』

というやりとりが出てくる。この「干上がった湖」という表現を聞くと百年シリーズに出てくる「移動する湖」を思い出すが、これは赤目姫の潮解では最終的には次のように表現されている。『「何故、水が一夜にして増えるのか、ご存じですか?」(……)「一夜が、私が認識している時間とは別のものだからです」私は答えた。』

『赤目姫の潮解』は百年単位が一瞬で過ぎ去って、場合によっては時が遡る「特異な認識」を描いている。だからこそ数百年単位を行きつ戻りつ小説作品として描いても何もおかしくはないわけで、「時系列」なんて細かいことにこだわらず「すべての時系列に当てはまる作品」という可能性もあるよなとふと思ったのだった。

僕は赤目姫〜に関しては4つぐらいの解釈を持っていてそこに新たに加わった、というところだけど。今回に関して言えばウォーカロンの不具合の件=夢についても関連があるかと思ったけれど、赤目姫の方は夢というよりかは大規模な混信だから、微妙に違うかなあ、でも夢みたいなもんだよなあ(うだうだ)。

彼女は、名前があります

最後のシークエンスでタナカの娘の名前が明らかになるが、「彼女には名前をつけました」ではなく「彼女は、名前があります」とまるで最初から名前がついていたかのように発言しているのでまあ、「つけた」ってことはないんだろうなと思う。もし、つけているのだとしたら「いやあ、あのマガタシキにあやかってシキってつけちゃいましたわハ・ハ・ハ」「ズコー」とかいうしょーもない落ちになってしまうし。

で、仮に自分で名乗ったとするのであれば、いくつもパターンは考えられるが……。「特定の条件下でシキを名乗る(真賀田四季の意志がどれだけ混入しているのかはともかく)」ようにある種の生体的なプログラムが組めるのかな。頭脳への書き込み、「ポスト・インストール」という概念が出てきたからそっちかもしれないけど。

作中で「この前会った真賀田四季はどのような真賀田四季なのか」という話をしていたけど、まるで「潮解」するように偏在しているのかもしれない。ただ、四季シリーズや『赤目姫の潮解』を読む限り「時間を遡る」ところまでは少なくとも射程に入っているようなので、偏在すらも到達点ではないんだろう。「生きものの限界」を超えるためには、「新しい生きものの枠組み」が必要となると『赤目姫の潮解』では語られているが、これはひょっとしたらそのうちの一手なのかもしれない。

『赤目姫の潮解』は7月15日に文庫化するし、なんともジャストタイミングといえる。文庫化の機会に読みなおすのもいいだろう。関連が──というよりかは、単品の作品として傑作であることだし。

赤目姫の潮解 LADY SCARLET EYES AND HER DELIQUESCENCE (講談社文庫)

赤目姫の潮解 LADY SCARLET EYES AND HER DELIQUESCENCE (講談社文庫)

*1:不自然と捉えないパターンもいくらでも考えられるから、ふわっとしているが