基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

ヴァーチャルの比重が増し、リアルが縮小した世界──『神はいつ問われるのか? When Will God be Questioned?』

講談社タイガで刊行中の、森博嗣によるWWシリーズの、『それでもデミアンは一人なのか?』に次ぐ第二巻である。書名に巻数表記もないし、ここから読み始めても特に問題はない。このシリーズでは、人工的に作られた有機生命体であるウォーカロンが広く蔓延し、人間はいくつかの事情から子供がほとんど生まれなくなった──、その一方で寿命は伸び、ひどい事故以外では死ななくなった世界を描き出していく。
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人工知能はすでに人間を圧倒的に凌駕しており、世界を動かすシステムはもはや人間の手には負えないほど広大で、複雑化してしまっている。そうした世界に関するいくつかの大きな変化が存在しているのだけれども、このWWシリーズでとりわけフォーカスされていることのひとつはVR、バーチャル・リアリティにある。

ヴァーチャルについて

現代でも多くの人がVR機器を楽しんでいるが、このWWシリーズ世界でのVRはその遙か先を行っている。それには幾つもの理由があるが、まず一つのは、この世界ではリアルが人間の手から離れつつある点があげられる。そもそも世界の運用そのものがもはや人間の手を離れつつあるし、肉体をいくらでも置き換えることができる世界では、自分自身の肉体はもはや機械とそうかわらない。

もうひとつは、VRな世界、電子空間というのは実質的には「もう一つの現実だ」からだ。我々はVRを今はまだ一時的なレジャーとしか捉えていないが、それはあくまでもVRから受け取る情報のフィードバック、密度が、現実とは比べ物にならないぐらい低いからに他ならない。仮に、VRからフィードバックされる情報が現実を超えたなら、その時人は我々が住むこのリアルにこだわる理由はVR空間の存続のため、電子基板に電力を供給するためだけの役割になってしまう。VR内なら、時間の流れも物理法則も思うがまま、何より安全で、とても自由だからだ。

だが、それは同時にとても危険なことでもある。ヴァーチャルはそれが存在している限りは完璧な世界かもしれないが、かといってそれはやはりリアルに立脚しているからだ。しかし、そのリアルそのものがこの世界ではもはや人間の実感からは遠いものになってしまっていて、たとえば何らかの事故が起こった時に、人工知能の助けなしにはにっちもさっちもいかない。人工知能は人間に作り出されたものである程度の人間を援護するための指向性を持っているが、人間はそれを「信じ続けられる」のか。

想定の機能を果たすかどうかを判断する際に、その構造が理解できないのであれば、できることはもう「信じる」か「信じないか」という問題になってくる。

あらすじとか

で、この世界はそんなふうにバーチャルの比重が増し、リアルが持つ意味が縮小した世界なのだが、本作の物語はこの世界に幾つも存在している仮想世界のひとつ、アリス・ワールドが突然のシステムダウンに襲われてしまうところから始まる。SAOなら、ここからログアウトできなかった人たちによるデスゲームが始まるところだがそうはならず、そこで過ごしていた人たちは強制ログアウトさせられてしまう。

それだけなら別に現在のオンラインゲームでもよくあることで、復旧を待てばいい話なのだけれども、このバーチャルへの比重が高まっている社会では多くの自殺者が出てしまう。前作から引き続き中心人物のロジとグアトは、アリス・ワールドの管理を司る人工知能、実質的な神との対話者として選ばれ世界へと飛び込んでいくが──という流れで、いくつかの神と現実、仮想をめぐる対話が行われていくことになる。

神との対話

VRが発展していった先に「神」についての問いかけが持ち上がってくるところも本作のおもしろさで、ようはこの世界の人間ってもう世界を駆動しているシステムのことが全然わかってないんだけど、それってもう「自然」とそう変わりないんだよね。

台風が制御出来ないのと同じように、もうこの世界のシステムと人工知能らは溶け合いすぎていて、それがどうにか思い通りの方向にいってもらうためにはもう祈ることしか──となったとき、再度そこには「神」が生まれるのかもしれない。

『神はいつ問われるのか?』と『赤目姫の潮解』と『四季』

VRというのは、森作品──というよりかは真賀田四季が出てくる作品においては重要な位置を占める要素だ。そもそも真賀田四季が最初に試みていたことの一つは生命の長期的な存続であり、同時に肉体などの軛から自由になることであったし、第一作『すべてがFになる』からVR、仮想と現実というのは大きなテーマだった。今作にも、VR空間で『すべてがFになる』を彷彿とさせるシーンがあったりする。

で、この『神はいつ〜』を読んでいると、非常に『四季』や『赤目姫の潮解』を読んだ時の手触りに近いものを感じるんだよね。今自分が存在しているのは〈リアル〉なのか〈ヴァーチャル〉なのか? とい問いかけられ、現実感覚が崩壊していき、現実と虚構が入り混じること。時間の流れが早くなったり遅くなったり、時間の並びがばらばらになって、一様ではないこと。そういった、『四季』や『赤目姫の潮解』に共通する表現が、本作のVR世界を通して部分的に再現されているのだ。

「そうなの。どこまでの話かっていうのが、いつも一番難しくて大切なの。どこまでが認めなくてはいけない現実で、どこからは想像、それとも仮定の話なのか。考えていくうちにわからなくなりませんか?」*1

たとえば下記のような一節が『四季』にはある。

何故、自分は、空間や時間を、現実の並びの中で捉えられないのか。
四季はそれをいつも考える。
自分だけにある傾向だろうか。
明確にシーケンシャルな対象のはずなのに、彼女はそれらをランダムに再構築しているのだった。それも無意識に。気づいたときには、こうだった。けれども、このシステムこそ、今では思考型コンピュータのアーキテクチャに応用され、既に構築知性には基幹のストラクチャとなっているもの。*2

真賀田四季は、自身のそうした特性によって、様々なイメージを渡り歩くかのようにして思考を広く展開させる。本作の引用文に用いられているのがカート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』だというのも、ここに繋がってくる。

 トラルファマドール星人は死体を見て、こう考えるだけである。死んだものは、この特定の瞬間には好ましからぬ状態にあるが、ほかの多くの瞬間には、良好な状態にあるのだ。いまでは、わたし自身、だれかが死んだという話を聞くと、ただ肩をすくめ、トラルファマドール星人が死人についていう言葉をつぶやくだけである。彼らはこういう、“そういうものだ”。
(SlaughterhouseFive/KurtVonnegut,Jr.)

死んだものは、この特定の瞬間にそうであるだけであって、他の瞬間には良好な状態にある。これはつまるところ、時系列がトラファマドール星人にとっては意味のない問題である、ということだ。悲劇も喜劇もある時間軸上の一点の解釈に過ぎない。これは『神はいつ〜』の仮想空間上で再現されつつあるものに近いんだよなあ。

今回あらためて『四季』を読み返していたんだけれども、VRと『四季』の時間認識、そして『赤目姫の潮解』の表現と今回の作品がきちんと線上に繋がっていて、やっぱり森さんの表現って恐ろしいほどに一貫している面があるよなあしみじみしてしまった。実際に、仮想が現実を凌駕した世界になったとき、人の世界認識といったものは『赤目姫の潮解』や『四季』で描かれたものに近くなっていくのかもしれない。

空間と時間からの決別。

*1:『赤目姫の潮解』

*2:森博嗣. 四季 冬 Black Winter (講談社文庫) (Japanese Edition) (Kindle の位置No.379-384). 講談社. Kindle 版.