基本読書

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奴隷少女は逃げる、どこまでも続く地下鉄道に乗って──『地下鉄道』

地下鉄道

地下鉄道

コルソン・ホワイトヘッドによる本書『地下鉄道』はピュリッツァー賞、全米図書賞、アーサー・C・クラーク賞など無数の受賞している大ヒット作。読んだ人たちの評判は軒並み絶賛でもともと気になっていたのだけれども、決め手となったのは基本的にSF小説へと与えられるアーサー・C・クラーク賞を受賞していることだ。

あらすじを一見したところ、物語の舞台は19世紀初頭だし、中心となるのは黒人奴隷の少女コーラの逃亡劇で、まったくSFらしくはない。で、読み始めみれば、筆致は軽やかで美しく、無数の視点から黒人奴隷がまだまだ一般的だった時代の情景が、心情が、価値観が、矛盾が描き出されていき、それでいて読むのが辛いでもなく、ひたすらおもしろい。少女はいくつものの州をめぐり、その一つ一つで違った形の希望と絶望を見出していく。だけど、SFとは言い難いんじゃないかなあと思いながら読み進めて、ある時点で「あっ」とめちゃくちゃびっくりして声をあげてしまった。

地下鉄道とは実在した"組織"の名で、奴隷制が認められていた南部諸州から、奴隷制の廃止されていた北部、あるいは南部であっても進歩的な考えを持つ勢力、農場へと黒人奴隷を逃がす手助けをしていたそうだ(僕もWikipedia程度の知識しかないが)。北部では許されているとはいえ南部の法律では黒人奴隷を逃がすのは犯罪であり、見つかった場合は白人でも厳罰は避けられない。そこで用いられたのが符牒や暗号で、逃がすための奴隷は「積み荷」、それを助けるのは「車掌」と言い換えることで、鉄道についての話をしているように見せかけながら計画を練ることができた。

つまり歴史上、地下鉄道は比喩として実在しても、実態として奴隷を逃がす"地下鉄道"は存在しなかった(実際、当時は地上を走る鉄道は出始めていても、地下を走るものはまだ無理だった)──が、コルソン・ホワイトヘッドは実際に"地下を走る鉄道が、もし本当にあったとしたら"というif/虚構を作中に放り込み、逃亡奴隷たちは比喩ではなく現実で、地下鉄道にのって各地へと逃げ散らばっていくのだ。

あらすじとか

奴隷の少女コーラは、アメリカ南部の農園で凄惨な日々を送っているうちに、同じく奴隷のシーザーから逃亡の話を持ちかけられる。当時、黒人奴隷が農園から出ていくのは、『自分が存在する根源的な原理を超えて逃げること──つまり、不可能』だと思われていた。しかし彼女の母親は、農園から脱出を果たす、奇跡を起こした一人だった。最初は逃亡を断ったコーラも、過酷な労働だけでなく打擲された少年をかばったことをきっかけとして、逃亡を決意する。無論、そのための手段は地下鉄道だ。

シーザーはたまたま街で出会った白人から地下鉄道の話を聞く。農園から30マイル離れた隠された駅へとたどり着ければ、彼らは追跡を振り切って脱出できるのだと。数々のピンチを潜り抜けどり着いた巨大なトンネルを前にして、コーラは自身の前に開けた可能性をみる。『「すべての州は違っている」とランブリーは言っていた。「おのおのが可能性の州だ。独自の習慣と流儀を備えてる。さまざまな州を通り抜けることで、最終地点に着くまでにこの国の幅の広さを知ることになるだろう。」』

「この国がどんなものか知りたいなら、わたしはつねに言うさ、鉄道に乗らなければならないと。列車が走るあいだ外をみておくがいい。アメリカの真の顔がわかるだろう」そして貨車の壁をぱしんと叩いた。それが合図だった。列車はぐらつきながら出発した。

というわけでコーラとシーザーは自由を求め各州を逃げ回ることになるのだけど、引用部にもある通り、州ごとにまったく異なる価値観と習慣と流儀、主に白人と黒人がどのように"共に生きているのか"というモデルに出くわすことになる。たとえば彼女たちが最初にたどり着くのは、サウス・カロライナだ。そこは南部だが黒人に対して進捗的な考えを持っている州で、元奴隷の黒人は多く、自由に仕事をして、好きな相手と結婚し、奴隷時代には考えられないほど自由な生活を送ることができる。

理想的な場所に見える。だが、しばらく暮らすうちに違和感も募ってくる。コーラは医者から男性との肉体関係の有無を問われ、公衆衛生事業の一環で、女性の腹部にある管を切断して胎児の成長を妨げる、黒人女性のみに限る手術の義務について語られる。ある面においての自由さと、別側面の不自由さ。果たして、彼女たちはどこで下車するのが正しいのだろうか。列車は定期的にやってきて、彼女たちに決断を迫る。

追う者

もちろんコーラたちの逃亡は悠々自適な旅ではない。逃亡奴隷は、奴隷狩り人によってひたすら追われ続けることになる。コーラを追う奴隷狩り人の名はリッジウェイといい、報酬だけではなく己の快楽のためにも獲物を追い詰める狩人だ。こいつがまあとことん執念深く、そのうえ有能で、まるでホラー映画の特殊能力持ちの殺人鬼かなにかのようにひたひたとコーラたちに迫り、農園へと連れ戻そうとする。

「まだ子ども奴隷だったころ、おれの名前を聞いたはずだ」リッジウェイは言った。「それは罰の名前であり、逃亡奴隷のあらゆる足跡を辿り、逃走経路をすべて予測する。おれがひとり奴隷を連れ戻すごとに、二十人のほかの奴隷が満月の晩の計画を諦めたものだ。おれは秩序の観念そのものだ。姿を消し仰せた奴隷──それもまたひとつの観念だ。つまり希望の観念。おれの仕事を覆すことで、近隣の農園の奴隷は自分も逃げられると思うことができる。そんなことを許せば、おれたちの至上命令には瑕疵があると認めることになる。おれは認めるつもりはない。」

コーラたちのアメリカ諸州をめぐる旅によって、多様な観点からアメリカの姿が照らし出されるというのは読みどころのひとつだけれども、同時に本書を純然たるエンタメとして成立させているのはこのあまりにも魅力的な狩人の存在によってである(それだけじゃないが)。毎度毎度ちょうどいいタイミングで割り込んでくるので「知ってたわ」と思うんだけど、そうはいってもめちゃくちゃどきどきするんだよね。

どこまでも続いていく地下鉄道

地下鉄道は何しろ地下を通っているわけだからどこまでも続いていく。ちいさな支線もおおきな本線もあって、知っている場所へも知らない場所へも連れて行ってくれる。それが本書の中心構造にあり、その先にはいくつもの州とアメリカの姿があり、とらわれることがない限りコーラの旅は続くのだ。果たして彼女は逃げ切ることができるのか。自由を得ることは可能なのか。

今年は『われらの独立を記念し』なども刊行されたけれども、アメリカというのはこうやってフィクションでもなんでも、幾度も自分たちの独立宣言に立ち返り、「アメリカとは何なのか」、「どのようにしてこの国が築かれてきたのか」というのを繰り返し繰り返し再認識していて、しかもそれが売れるエンタメになっているのだから、単純にその点については強い国と国民だなと思うのであった。本書の終盤、インディアナ州でコーラが目撃する"幻想"へと是非たどり着いてもらいたい。
huyukiitoichi.hatenadiary.jp