基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

異邦人/カミュ

あらすじ
きょう、ママンが死んだ。


感想 ネタバレ無

ラスト4ページは本当に鳥肌もの。主人公の狂気が乗り移ったような感覚で読み切った。読後感でいえばこれほどのものもそうあるまい。

不条理小説だとか、実存主義だとか意味のわからない事が解説に書いてあったが、そんな事抜きにして楽しめる小説だ。むしろそんなわけのわからない理屈なしで読んだほうが余程楽しめるのではないか。

単純に生きるという事は何なのかという問題に、正直に、嘘偽りなくこたえようとしたのがこの小説であったと考えている。現に、主人公であるムルソーは、いついかなる時も自分の気持ちに正直であった。

普通、ボールが自分に向かって飛んできたら、速度や軌道を自分に当たるかどうか計算して、避けるかどうか決定する。だがそれは無意識的な物だ。頭の中で数式を展開して答えを出しているわけではない。それと同じように、みんな日常生活の中で、対人関係の中で似たような事をしている。無意識的に計算を行って、本心とは別の理由づけを作りだして、自分さえもだます。

そういった事を全部排除して、感じたものを感じたまま、素直に表現したのがムルソーであると、考える。それは他の人間から見れば異端であり、ムルソーは異邦人であった。タイトルの意味は、そういう意味だとカミュ自身が書いている。

こんな人間は現実にはいないからこそ心地よい。太宰治の斜陽にもこんな文があった。わたしが乱暴者を装えばみんなはわたしを乱暴者だといい、違う自分を演じればみんなは自分を違う自分だといい、本当の私など誰も見ていない。

ようするに世の中というのはそういうものであるという話だ。

また間違いなくラスト4ページは記憶に残る、物凄い質量を伴った結末であったと自信を持って言える。そしてこの死生観だ。この正直な男が死と向き合って何を考えるのか、というのは最大の関心事でありまた十分満足させられる内容であった。

裁判制度について、死刑制度についてももう一度考え直すきっかけを与えてくれるだろう。

ネタバレ有

 きょう、ママンが死んだ。

で始まるのは単純にインパクトの点で凄い。単純にきょう、ママが死んだ、じゃないところもおや?っと思わせるだろう。冒頭に衝撃的な文を持ってくるというのは、なんだか常識のようになってしまっているがこの微妙なアクセントのついた始まり方は訳者のおかげというかなんというか。

しかし上の文章は膚の下の、きょう、サンクが死んだ、という文を思い出して非常に泣ける

最初はいったいこれからどういう展開になるのか、まったく予想もできなかったがまさか裁判にかけられて、母親の葬式で泣かなかったという事を執拗に攻められ、なんでもない事件を死刑にまでもっていって死生観を問い、裁判制度を問い、世の中の人がいかに人の上辺だけしか見ていないか、声の大きな人間に惑わされるのか、というような事を問いかけるような内容になっていくとは予想だにしなかった。

確かに不条理小説といえば不条理小説だが、不条理小説と一言で片づけるにはあまりに重い。単に一言で表せるのは便利だが、あまりに単純化しすぎると本質を失うのではないか。

不条理というのはつまり、常識外という事だ。その常識外が、世間であって、ムルソーの状況を不条理だ不条理だと考えながら読む事は、世間を常識外だと糾弾しながら読むことではないのか。ただ、不条理だ不条理だと騒いで、社会が悪い世間が悪いと勝手に読んで、勝手に想像して、人類を告発したような気分になるようではダメじゃないかと思うのだ。何故なら現実に居る自分もその世間の一員になっている可能性があるのだから。

単に不条理小説と割り切って読めないのはこういう無意味で複雑な思いがあるからだが、なんか格好いい事を書きたかっただけという説もある。



何故、殺したかについて
 「太陽のせい」

と答えたというこの文は非常に有名だが、これもウソをつかないように、正確にその時の自分の気持ちを表現した結果だ。意外と人を殺すなんていう事にも、それぐらいの理由しかないのかもしれない。あるいは人を殺すのに本当は理由なんて必要ないのかも。聞かれたから、無理に答えただけで本当は理由なんて複雑に絡み合っていて、いろんな要素があって簡単に説明できるような、理解できるような事ではないのかもしれない。理由の目立つ犯罪ばかり、世間にはあらわれるけれどその影でこういった殺人も起きているのだろうか?

しかしどう考えても死刑になるような罪じゃないと思ったんだが、よく考えたら日本の法律ベースで考えていたからなぁ。死刑とかいう単語が出てきたとき眼を疑った。

死刑を受けるものにもチャンスが必要だと、作中で主人公が言っていたがその辺はどうなのかよく理解できない。10回に1回助かるような仕様にしたからといって、それに何か意味があるのだろうか。いや、もちろん当事者からしたら凄く意味のある事だろう。何しろ単純に死ぬだけじゃなくて、低すぎる確率だとしても希望が生まれるのだから。あるいはここで言っている事は、どんな時でも、チャンスは必要だ、ということなのだろうか。そんな事するぐらいなら最初っから死刑制度なんて廃止にしたほうがいいのだと思うが・・。人は誰だって平等にチャンスが巡ってくるわけじゃない、それなのに死刑囚にのみチャンスを認めるというのはおかしいんじゃ?

ちなみに日本の死刑制度については反対でも賛成でもない、念のため。

この世界の事はほとんど意味がないが、自分が楽しいと感じる事、うれしいと感じる事には意味があるという単純な理屈が世の中のほとんどの人には理解できないらしい。

最後、ムルソーはしきりに神を信じろ、あなたのために祈ろう、と言ってくる神父に向かって猛烈に怒る。それがあまりにも・・・なんていうのかなぁ、真に迫りすぎているというか、激情がこっちにまで伝播してくるようなそんな演出?なんていうのかな、怒りが伝わってきた。

これから死刑されようとしているのに、神の救いなんてものを持ってこられても迷惑なのだと今まさに、死とこんにちはしているのに今さら目にも見えない毒にも薬にもならない、実際の助けには何の役にも立たない神なんてものを持ってこられても何の意味もない、とムルソーが怒るのが心情的に近いから、より理解できるのだろう。あるいはこれは無宗教の日本人故か?

 私はかつて正しかったし、今もなお正しい。いつも、私は正しいのだ。

いつだって自分の感じるままに行動してきて、自分に出来る事をやってきたムルソーだからこそ言える言葉だろうか?たとえ行動が、ひどい結果を招いたとしてもそれを選んだその人の決断は、誰だって間違っていないと自分は思う。もし自分のとった行動によって、悪い方向に行ってしまったとしたら、その人は多分自分のとった行動が間違いだったと悔やむだろう。だけど、それはその時取り得る最善の行動だったはずで、だからこそその行動を選択したわけであって、間違いなどではあり得ないのではないか。この言葉はムルソーにだけ当てはまる言葉ではなく、全員に適用されるべし言葉だと思う。

上でも書いたように、やはり世間というくくりでくくられる人々は声の大きな人に従い、人の上辺だけを見て人を判断し、異端を排除し、理解出来ないものを排除し、およそ真理、本質、そういったものを全く見ようとしないのだろうか。
ここではそのテーマ性ゆえに強調されて書かれていただけで、実際はちゃんと理解してくれる、本質を見る事が出来る人もたくさん、いるんじゃないか。

さっきこんな人間は現実にはいないと書いたが、実際には、ムルソーの一部を体現しているような人間はそこらじゅうに居る、というか、多かれ少なかれ人はムルソーに共感するのではないかと思う。同情とは違う。同情なら誰だってするだろう。そうするように書かれているのだから。

2008/7/2 読了