基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

流星ワゴン/重松清

初重松。のような気がしてたけどロストオデッセイで読んでいたのだった。

あらすじ

死にたいと思ったら突然おっさんとその息子のワゴンに乗せられて過去をめぐらされる。

感想 ネタバレ無

な、ないてしもうた。しかもなんて事ない、泣かせのテンプレートみたいな話なのに。いやでも泣かせる話は結構簡単だっていうしな。とはいうもののやっぱり面白いよ!

ロストオデッセイの方の話と、この小説しか読んでないけれども、雰囲気が同じような気がする。似ているというわけではなくて、じんわりと染み入ってくるような文章が心地よい。本当に、展開で泣かされた部分もあるけれど、この単純な、純粋に思いを伝えてくるような一人称の文章にやられた。

家族の話である。
家族の話を読むといつも複雑な気持ちにさせられる。大抵その話の落ち着くところは、家族とは切っても切れないもので、どんなに喧嘩しても結局は繋がっているんだよ、というようなものだ。

そんなわけないだろ、というような気持ちに、読み終わった時になる。
家族だといっても、他人なのだ。遺伝子でいえば自分とは50パーセントしか自分と同じではない。人間として尊敬できない時だってあるし、家族だから無条件に何でも許される、愛され愛する事が出来るというのはおかしなことだ。

だが、読んでいるときはそれでいいのだ、としか思っていない。そういった都合のいい事が出来る自分が好きだったりする。

流星ワゴンはその典型のような話だ。家族っていうのはそういうものなんだよというような。それはきれいなものだし、だからこそ読んでいて面白いのだろうか。家族というのに血のつながり以外に重要なものがあるとすれば、それは一緒に居た時間の長さだろう。

って何が書きたいのかわからなくなってしまった。何が言いたかったんだっけな・・。利己的な遺伝子を読んでから家族というものの持つ意味がわからなくなってしまった。家族という意味というか意義というかそんなものが。

家族の話というのは、泣かせるのにはもってこいだなと思う。
何故ならどんな題材よりも、読者にとって身近だから。家族がいない人はいないから。生まれた時から孤児だという人だって、この世のどこかには父親と母親がいたはずだ。どんな立場のどんな人間だって、家族ネタなら身近に感じられるはずだ。

現実を受け入れて、今まで見過ごしてきた自分の間違いに気づいて。それを成長の糧にしていくという王道ともいえる話だ。だが重松清の、言い知れない文章も相まって特別なものになっている。

恐らくどの作品を読んでも、さすが重松清といえるような出来になっているのではないか、とこの作品を読んでいて思った。こういうのを文章のプロといえるのだろうか。恐ろしくレベルの高い作品を平均的に出し続けることのできるもの、といったような感じで。きっとほかのどの作品を読んでも、がっかりすることはないように思える。最近の作品どころか過去の作品も全く知らないが。
だからいうなればこれはただの妄想だ。



ネタバレ有

子育っていうのは何にも増して思い通りにいかないものだな、と思った。父親にもなっていない自分がこんな事を書くのはおかしいだろうか?
こういった子供になってほしいと願えば、その通りになるというものでもない。才能を伸ばしてやりたいと思ったからといって、その通りにできるものでもない。じゃあ子供の自主性に任せようとして、何もかも子供の好きなようにやらせたからといってうまくいくものでもない。

最低限自分で考えて、行動できるだけの常識をつけさせてやらねばならないのか。子どもとたくさん触れあって、たくさん遊んであげるのがいいのか。

もし自分が親になったら、という仮定の元で考えるとこれほど難しい事もない。全部正しいような気もするし、全部間違っているような気もする。ただ幸せになってほしいとは思うだろう。それならば、それに従って行動するだけだ。すべては臨機応変に。


 「いいこと教えてあげるよ、健太くんに。あのな、息子は親父を捨てていかなきゃいけないんだ。いつまでも親父さんにべたべたしてちゃだめなんだよ。嫌ってもいいし、憎んだってかまわない。親の世界から出ていかないと、子どもはどこにも行けなくなっちゃうんだから」


神林長平のあの名言。子供は親に反乱した時に、初めて大人になるのだ。を彷彿させるこのセリフ。まだ実感として理解できないけれども、それでも大切な言葉だという事はわかる。捨てる=反乱ではないけれど、本質的な意味は同じだ。いつまでも親の世界にとらわれているだけではだめだという意味。

それにしても、広樹の挙動だったり、主人公の葛藤だったりどれも身近なものばかりだ。自分が感じたものをそのまま文章にしたらこんな風になるだろうなというような。簡単そうに見えてかなり難しいのだが、それを実際にやっていて、それがさらにくどくなく非常にシンプルになっているところが凄い。

広樹がペットボトルに嫌なやつの名前を書いてパチンコで撃ったり、親に相談できなかったり、主人公が日々の忙しさに追われて色々な事に気づくことができなかったり、そういった身近な事がいちいち丁寧だ。


 「逃げてもいいんだよ。逃げられる場所のあるうちは、いくらでも逃げていいんだ」
「負けてもいいんだ。ずうっと勝ちっぱなしの奴なんて、世界中どこにもいないんだから。みんな、勝ったり負けたりを繰り返してるんだ」


全く同じセリフを西の魔女で聞いた時は、まったく同意できなかった。今回は、まったく同じ状況にもかかわらず同意出来る。二人とも、イジメから逃げる、というような共通の理由を持っているのに何故片方は同意出来て、片方は出来ないのか?

わからんなぁ。西の魔女の方は、あまりにも、無条件に全肯定すぎたからだろうか。詳しい事情も知らずに、何も確かめずに、逃げていいのだ、とそれだけ伝えるのがはたして正しいのかどうかという事が気になったのかもしれない。
いつまでも逃げ続ける事は出来ない、というような意見が自分の中にあるからかもしれない。あまり意識したことはないけれど。でもだったら何で、流星ワゴンの方は同意出来るのか。頑張ったからかもしれない。広樹は受験するために頑張ったし、その過程でいろいろまずいことがあってイジメられる事になってしまうけれども、それは頑張った事の結果なのだ。努力の結果だ。そういった人間は救われるべきではないのか。はじめの一歩のあの名言がよみがえる。

 努力したものが必ず報われるとは限らないが 成功したものはみなすべからく努力している。


ただ、努力した人には少しでも多く救われてほしいと思っている自分がいるから、広樹に同情的になったのだろうか。西の魔女が死んだの主人公は、自分から努力したとは思えない。

どんな名言も、立場や視点の違いによって同意出来たりできなくなったりするといういい例だろうか。それにしても〜だろうか、とかそういう推測的な言葉でしか書けなくて面白くない。自分の事なのに全くわからないとは。


 学校に行けなくなってしまった一人息子と、家に帰らない夜もある妻。そして、職を失った父親。サイテーの現実が待っている我が家に、僕は戻る。胸を張れよ、と自分に命じた。まっすぐに歩け、と言い聞かせた。
 もう魔法は解けてしまったのだ。


あまりにも問題が山積みの、まさに最低の現実だ。この深刻な問題を一気に解決するのは、到底無理な話だろう。だったら受け入れるしかない。人間諦めが肝心というが、こういうときに適用されるべきであろう。いくつも解決しようとして結局何も解決しないよりも、いくつか諦めてしまって、他のものは受け入れるしかない。ってこんな事がいいたかったわけじゃないだろうな。

いろんなつらいことが待っている現実でも、それが現実なのだと受け入れて生きていくのが人生というものだと綺麗に閉めたところで読了

2008/7/6 読了