- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: アルテスパブリッシング
- 発売日: 2007/09/29
- メディア: 単行本
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もちろん村上春樹のこともたくさん書いてあって、そっちはかなり興味深く読む事が出来た。ハルキ文学の読み方が変わる事はなかったと書いたのは事実だが、それはハルキ文学がいかに凄いかと色々な部分に注目して一つ一つ解釈していくからで、要するにいかに凄いかを解説しているだけなのである。ゆえに最初から春樹は凄いと思っている自分は凄いという認識を別視点から与えられたことによってさらに凄いとは思ったものの、認識は変わらない。これを読んで読み方が変わる人がいるならば、今まで村上春樹を読んでたいして面白くないな、大したことないなと思っていた人であろう。だがそういう人たちはこれを読んでも、多分認識を改めることはない。天才が新人を育成することがうまくいかないことが多いのは努力した経験がないからという話はよくあるけれど、それと似たような話で元から村上春樹を絶賛している人間が書いた村上春樹の解説本を読んでなるほど、村上春樹面白いかもしれないと考えを改めるはどうしても思えないからだ。反面、すでに村上春樹に深くのめり込んでいる人間からしてみればなるほどー! とかわかるわかる、といったような友達同士の会話を彷彿とさせて楽しめるかもしれない。
以下気になったところまとめ。
壱.倍音
倍音という表現が繰り返し出てくる。具体的に書くと人間の耳には聞こえないのだけれども、存在することが音楽にとって非常に大事なものらしい。それが優れた小説には必要であって、村上春樹はその倍音を出す事が出来る数少ない作家のひとりであるというのが内田樹の書いていることである。また村上春樹は倍音を例にとって、すぐれた物語とすぐれていない物語は言葉では説明できないのだけれども、倍音があるかないかのように明確にわかる、すぐれた物語は身体に響くといっている。自分が何故好きなのかわからないのだが熱狂的に好きな作家が二人いて、まあサリンジャーと村上春樹なのだがどこが面白いのか? と聞かれても確かに説明できない。本書では村上春樹について色々語っていて、それを例にとって春樹は凄いんだよ! というのはなんだか違う気がする。あくまでも村上春樹やサリンジャーは自分自身で考え抜いて何かを見つけ出さないといけない特別な作家に自分の中でなってしまっている。
弐.普遍性? 不変性? 不偏性?
村上春樹の愛読者について。村上春樹の文章は普遍的であり、世界的であるとよくいわれる。多くの人は村上春樹の書く人々やら事柄の中に自分を見る。自分を見た人たちは、それが自分のために書かれたもの、あるいは自分のようなものに発信されたもの、もしくは自分だけが気が付いていることと理解してより満足感にひたる。さらに村上春樹が批評家から嫌われていることを例にあげ、村上読者は批評家にさえ理解されていないことを自分はわかっていると選ばれた受信者感覚をより得ると書いている。
うむ、読んでればわかるけれど、この人常に村上春樹を批判する批評家を批判している。それは村上春樹が地獄のような行為だと言っているのに。いや、多分批判しているつもりはないのだろうが批判しているようにしか読めなかった。正直いって大多数の村上春樹愛読者は、村上春樹が多くの批評家に批判されていることなんて知らないと思う。批評家に対しての皮肉だけで書くのはおかしいんじゃないか。まあ本当に批判されているとすればなんともおかしな話だけれど。村上愛読者である自分は、どこか共感をもって作品を読んでいたのだろうか。うまく思い出せない。読んだ時はこのブログもやっていなかったし。ただ読んでいて本当に無意味だなあと感じた事があるのは覚えている。なんというか、あまりにも曖昧ってかそれを通り越してあまりにも無意味。だがこんなに無意味なものを書ける人間が存在しなくて、まったく意味がないってことは逆に考えると凄く意味があることだろうと2年ぐらい前に世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドを再読した時に感じた、ような気がする。
参.知性の質の総量は同じ?
いい小説が売れない、それは読者の質が落ちたからだっていうけれど、人間の知性の質っていうのはそんな簡単に落ちないですよ。ただ時代時代によって方向が分散すぎるだけなんです。この時代の人はみんなばかだったけど、この時代の人はみんな賢かったとか、そんなことはあるわけながないんだもん。知性の質の総量っていうのは同じなんですよ。by村上春樹
この知性の質の総量は同じという言葉を随分前にどこかで小耳にはさんで、それがどういうニュアンスの元で、どういう話の流れで発言されたのかずっと気になっていた。それがこうして元ネタを発見できて感激しかりである。柴田元幸と9人の作家たちという本に収録されているらしい。今度読んでみよう。
肆.書評、批評について
筋をずらずらと書いてしまう書評って困ったものですね。とくに結末まで書いてしまうというのは問題があります。(・・・・・・)一般論で言って、書評というのは人々の食欲をそそるものであるべきだと、僕は思うんです。たとえそれが否定的なものであったとしても「ここまでひどく言われるのならどんなものだかちょっと読んでみよう」くらい思わせるものであってほしい。それが書評家の芸ではないでしょうか。
お・・・おお・・・。む、胸が痛い・・。いや・・・これはひょっとして良心というやつだろうか。自分の中にもちゃんと巣くっていたとは・・・良心ちゃん・・・頼むから離れていかないで・・・。まさに今の自分ですね、わかります。うーむ、しかしやめる気にならない。多分自分ではそれほど悪いことだと思っていないからではないか。そりゃそうだ、悪いと思ってたらやるはずがない。今のところこうやって内容を羅列するのは少なくとも自分にとってはとても役に立っている。役に立っているゲージが圧倒的にまさっていて罪悪感を打ち消している。誰かに注意されでもして罪悪感ゲージが急上昇したらやめられそうなのだが。まあそれはおいといて。書評を書いているつもりはないが、なるほど確かに。書評に至上目的を与えるとするならば褒めるにしろけなすにしろ、相手に読んでみたいと思わせるものを書くべきなのはシンプルでわかりやすい。そしてなかなか難しそうだ、だからこその芸なのだろう。目が覚めるような思いだ。
創造よりも批評に傾く人は、クリエーターとしてはたいした仕事はできない。
こっちは内田さんの言葉。これもよくわかる話であるし、実際に村上春樹も書いていることである。これも何故かはうまく説明できないのだが、理解できると感じてしまう。何故理解出来るのかさっぱりわからない。自分は批評に傾いているのだろうか、たぶん傾いているんだろうなあ。少なくとも創造ってガラじゃないとはずっと昔から思っていた。そしてだからこそ、批評家から小説家になろうとして、出来なくてジレンマに陥っていた安原顕が読んでいて無性に悲しい。もちろんそういった理由から安原顕が村上春樹を恨むようになったり、原稿を秘密で売却したりしたのだろうという推論を無条件で信じるわけではないけれど。そうだったら泣ける話だなーと思っただけである。