基本読書

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三国志 十三の巻 極北の星/北方謙三

感想 ネタバレ有

ついに完結した。だが、本心を言えば不完全燃焼といった感が強い。孔明が自分の死すらも利用して敵を策にはめる話が無かったこともあるが、いや、それはいいのだ。この孔明はそれでいいと思える孔明だった。魏延を殺そうとしない孔明なのだから。ただ孔明は本当にこの北方三国志では、ただの一人の漢になってしまっていた。


司馬懿との、野戦描写は凄かった、の一言だろう。孔明の用兵描写は読んでいて非常にわかりやすい。あるいは十三巻まで読んできて、こっちがやっと用兵描写を想像出来るレベルに達したと考える事も出来るが。自分、想像力がかなり足りてないと思われるのでキャラの人物描写なんかを読んでも全く頭の中に展開できない。それと同じで用兵描写なんて言われてもさっぱりわからないのであるが、この野戦描写は凄い。孔明を見直す思いだった。

だが、本当に孔明は活躍しなかったなと思う。呉の陸遜も、司馬懿も、あの策が決まっていたら蜀の天下だったと口をそろえて言う。実際決まっていたら蜀の天下だったのだろうが、何一つとして決まっていない。あの策が決まっていたら野球は金メダルをとれた、といっても誰も納得しないだろう。この孔明の思いの他のしょぼさと、それなのに周りの人間が異常に孔明を恐れている描写がどうもちぐはぐに感じてしまうのだ。こんなに何回も策を失敗させていたら孔明おそるるに足らずと思ってもよさそうなものだが。致命的なまでに人を見る目がない、孔明に。結局孔明が卓抜した能力を見せたのは民政と、大戦略とでもいうべき天下三分の計、それから南の制圧や、今回の野戦のような戦略よりも戦術を得意とする場面。大戦略と比較して比較的小規模な、いわゆる小戦略とでもいおうか。それをことごとく失敗している。もはやこれは致命的に向いていないといってもいい。他人が信用できないからか自分で全てをやろうとする、結局そのせいかどうかはわからないが病に倒れる。失敗から何も学んでいない。

信用できないというのも仕方がない話なのかもしれないが。劉備時代と比べてあまりにも人材が貧相だった。関羽張飛趙雲もいない。姜維は、若すぎる。それは魏も同じだったがあちらは元がある。呉は人材だけでいえば三国の中で最も優れていたかもしれない。

孔明の最後はあっさりとしたものであった。どこが悪かったのかはわからないがラスト50ページ近くで突然病の描写が出てきてラスト付近で突然死亡した。蜀をここまで大きくした最大功労者としては静かすぎる死だった。そして孔明の死によって、長かった北方三国志も幕を閉じる。このあとどうなるか、というのを完全にまるなげして終わったような感じになったが、これでよかったのだろう。このあと繰り広げられるのはもう眼が覚めるような戦などでは到底ない。確か司馬家が魏をのっとり、蜀をつぶして、呉は孫権が狂って側近を殺したりしているうちに司馬家に滅ぼされる。そして晋が出来る。そんな歴史に面白さはない。

孔明の死のあと、馬超と袁綝と袁京が出てきて終わるというのも、考えてみれば悲しい話だ。袁京は曹操劉備の死を看取った人間であり、馬超も乱世を最初から生き抜いてきた男であり、袁綝は袁家である。馬超を読んでいるとまるで子午山の王進を思い出す。子午山が聖域になったように、馬超の村も聖域になったのだろうか。

まるでみんな戦いはやめて、平和に暮らそうではないかと最後に綺麗にしめられたようである。意図なんて考えてもわからないが。

 
 自分とは、なんなのか。この闇の中で、どれほどの存在なのか。命とは、ただ闇のようなものなのだ。死も、同じだ。この闇に生まれ、この闇に死ぬ。
 光が、明るさが、生だということはない。闇の中で見る夢。人の世のすべてが、闇の中の夢だ。
 しかし、闇は心地よかった。かぎりなく、無に近いと思える。死すらも、感じることがない。
 生きた証など、欲しがってはならぬ。夢の中に、証などありはしない。
 ただ生きよ。ひたすら夢を見よ。所詮は闇。消えて行き、闇に戻る。


死ねば土に還るとか死は闇だとかいろいろいっているが根本的な事は何一つ変わっていない。特に大それたことをいっているわけではないが、この文章で、孔明がいっているということが大事なのだ。変に教訓的でない。ただあるがまま。
諸葛亮孔明、駆け続けた人生であった。

  • 張衛やっと死んだ

一巻から出続けて十三巻まで生きた男という貴重な存在であるが、こいつの視点を長々と書いた理由が本当に、まったく、一ミリも理解出来なかった。一巻から長々と張衛が出てきた頃から意味がわからなかったが読み終わった今でも意味がわからない。こいつが唯一重要な役目を果たしたといえば袁綝と馬超をくっつけるための悪役になったことぐらいだろう。片腕だけ馬超にきられて、生かされたのだからまだもうひと波乱あるかとおもえば、山の中で賊のまねごとをやって結局軍にぼろぼろに殺された。いったい十三巻までこいつが生きてきた意味なんていうのはあるのだろうか。というかこんな意味のない男の視点を今まで読んできた事にどれほどの意味があったのだろうか。張魯の死と共に、こいつサイドの話も終わってよかったのではないか。

常に批判をするときは、何故そうしたのか、そこに何か意味はないのかを考えたいと思っている。基本的にいつも、自分の思い込みかあるいは納得はできないまでも、理由がある事が多い。たとえば張衛にこの長く続いた乱世を見届ける役目を持たせたかったのかもしれない、などである。だがその役目は馬超にあるし、張衛にいったいどんな役割があったのか、何故ここまで生き延びたかについての説明が自分には出来そうもない。考える力が完全に衰えている気がする。こいつが死ぬ場面はあまりにも小物すぎて(最初から小物だったが)泣きたくなったほどだ。

  • 回想が多い。

幸い十三巻にはあまり回想は入らなかった。張衛の回想はかつてないうざさだったが。何しろ馬超に腕を斬られたことを思い返して、あのとき袁綝を奪っておけばこんなことには・・・と考えた二ページ後にまた馬超に腕を斬られたことを思い出し、あのとき袁綝を・・・と繰り返していたからだ。お前にはそれしか思い出がないのかといいたい。というか二回も繰り返して思い出すのはそれだけ強調したかったなのかもしれないが、同じ話を二度されて面白いはずがあるまい。

周瑜が死んでから以降の三国志に、異常に回想が多いのは気になった点である。ことあるごとに過去にあったことを反復する、あの頃あんなことがあったと、一回ならいいのだが同じ回想を何回も何回も挿入するから途中で飽きてしまう。思うに視点がある程度固定化されてしてしまったため、というか主要人物がどんどん死んでいったためにそんなことが起こってしまったのではないかと思う。水滸伝は108人ものキャラがいたため視点に困る事はなかったが、三国志ではそこが悪い方に出てしまったのかもしれない。あくまでも個人的に回想が邪魔だったというだけである。

司馬懿また失禁。新聞だったらこんな見出しででかでかと見出しになりそうだ。確か蜀が曹丕を打とうという策を実行に移そうとしたときも失禁していたな。今度は野戦で失禁している。一回だけならそれほど気にはならなかったのだが、このとき司馬懿は完全にネタキャラであると認識してしまった。

 「あれか」
 叫んだ瞬間に、司馬懿は失禁していた。

闘いに赴く前に、思い残した事をやっていくというのは言葉にしてしまえばかっこいいものだが司馬懿は一味違った。女に六日間自分を罵らせ続けて女が死んだあと死体に精をはなって意気揚揚と戦場に出て行くという変態っぷり。周瑜が北方三国志の中で一番好きなキャラだと思っていたがこのエピソードを読んでから司馬懿が好きになってしまった。なんという変態か。全然かっこよくないではないか。

さらにひどいのは、戦場で陣にこもりきって出てこない司馬懿に向かって、蜀から女のようなやつだと着物が贈られてきた時にもっと侮辱せよと笑い転げるところである。きが、くるっとる。

 司馬懿は、居室にひとりで入り、転げ回りながら、笑った。涙は流れ続けている。ここまで侮辱されれば、いっそ快いほどである。もっと侮辱せよ。もっと苛め。

冷静に考えれば怒り狂う自分を必死に抑えようとするかっこいい司馬懿が浮かび上がってこない事もないのだがいかんせんドM設定があるためにどう考えてもひねくれた見方をしてしまう。もっと侮辱せよ。もっと苛め。は北方三国志きっての名セリフではないだろうか。孔明の巨大さに必死に耐える司馬懿という見方でも素晴らしい場面であるといえよう。


作品全体を通して、不満点も確かにあった。張衛だったり回想だったり孔明だったり、あと全体的なものといえば、やはり史実であるという点に作品がひっぱられすぎている点であろうか。ところどころエピソードをけずったり、付け足しされていたりはしたが、やはりだれそれが死ぬということまでは変えられない。そういった点全てを改善しているのが、水滸伝といえなくもないのだが、というか上のような不満が出てくるのはひとえに先に水滸伝を読んでしまったからではないか、とは思う。正統進化といえなくもない。

悪い点ばかりではもちろんない。全十三巻を読みきらせる面白さがここにはあった。
そもそも曹操劉備諸葛亮孔明司馬懿などなどたくさんの魅力的なキャラクターが出てくるというたった一点の事実だけでおもしろくないはずがないのだ。くわえて北方謙三である。歴史すらもねじ曲げてキャラをかっこよく描写するこの北方謙三にかかれば三国志もハードボイルド小説になるのである。

特によかったと感じたのは、曹操劉備張飛周瑜呂布である。この四人の存在感は圧倒的であった。三巻で呂布が死に、九巻で周瑜が死んだが、ここの盛り上がりは文字にすることなど到底出来そうもない。孔明は、読む前から物凄く期待していて、あまりに期待が膨らみすぎたという事もあるが、上にも書いたようにこの三国志の中じゃ孔明はあまり目立つ、活躍をしていない。悩むし、体も壊す。

最初の豪傑が出そろった頃の興奮はしかし、後半になるにつれてどんどん失せていく。曹操も、闘わずして負けた諸君に訣別を告げる、といった時が最高潮だったかのように後年は昔の思い出話しかしないで、病で死んでいった。九巻の周瑜をかわきりに次々と死んでいきそれにつれ熱気も下がっていったように思う。なにしろ残っている人物が大したことない。みんな劣化●●と評してもいいような人物ばかりである。呉は後半孫権が天下を目指さなくなってからほとんど視点が書かれなくなったし、蜀も、劉備関羽張飛がいなくなったらずいぶんと寂しいものだ。悲しいというよりも、さびしいという感覚が強い。まさに曹操がいったように、もののふは、死んでいく、である。誰もかれも老いには勝てなかったという事か。確かに長い目で見れば老いで死ぬというのは野球の敬遠に似ている。孔明も強打者過ぎたが故に、司馬懿に敬遠され続けたともいえる。さすがにバットを持たずに打席に立つという事もできなかっただろう。バットを持たずに打席に立つを三国志風に言うと孔明一人が的に乗り込む、みたいな感じだろうか。たぶんあっというまにぶっ殺されるだろうな。長嶋さんはもし球が敬遠じゃなかったらどうするつもりでしたか?という問いにふつうに手で撃つつもりだったよと答えたというが、孔明が一人いってどうするつもりだったのですか? 普通に闘うつもりでしたよ、といってもそりゃ無理な話である。まぁ最近いろんな作品を読んで思うのはやはり最後に肝になるのは老いだな、ということである。

永いこと楽しませて貰った。三国志に最大限の感謝を。