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カラマーゾフの兄弟 4/ドストエフスキー

カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟 4 (光文社古典新訳文庫)

物語の幕はここで一度下される。父殺しをめぐる一連の裁判はこの巻で終わりを告げ残りはエピローグとなる。そちらはやはりエピローグというぐらいだから、事態が大きく動く事はあるまい。そう考えると非常に寂しいものがある。第四巻には「第十篇 少年たち」「第十一編 兄イワン」「第十二編誤審」の三つが入っており、正直目次で誤審の文字を見た時にああやっぱり誤審なのかとわかってしまったのはなかなかいたかったかもしれない。

さて、とりあえず一区切りということで総評を述べておくと、物凄く面白かった。これ程の世界観にはもう二度と出会えないだろうという程作りこまれた人々、世界とこちらまで興奮が乗り移ってくるかのような圧倒的な感情の表現。特にこの感情が盛り上がっていく表現が信じられないぐらい素晴らしくて、誰かが泣けばこっちまで泣けてくるしそしてそれが悲しいというよりも、感情が高ぶったあまり泣けてくるのである。それからなんといっても長大なるセリフ回し。あり得ないほどの大演説を一人一人がぶちまくるのにも関わらず、リズムに乗せられてひょいひょいと読み切ってしまう。まあまだ五巻があるのだし語りきってしまうのもやめておこう。本当の総評はまた五巻を読んでから。

「少年たち」がいきなりよくわからない少年の話から始まり、いったいこいつらが何の意味を持って出てきたのかわからずにあまりのめり込めなかったが、アリョーシャが出て来ると問答無用で興奮する。アリョーシャの色々な悩みある人の元へ訪れ、颯爽と救いをもたらしていく様は愛の伝道師とでもいうべき姿で、何故だかわからないのだがホフラーコフ夫人とアリョーシャの対話で泣けてきてしまう。本当に何でもない会話なのだが、何故かとてつもなく良かった。ひょっとしたらこの四巻全体を通して一番良かったかもしれない。リーズも豹変した姿がいたいたしいが、本来予定されていたカラマーゾフの兄弟第二部では二人は寄り添って生きていくらしいからそこに希望を持つしかない。

それからミーチャとアリョーシャの対話。ここはまた思想がすごくてなんだかよくわからんのだが異常に感動した。神様がいないとなるならば、人間が大地と世界の住人となる。ただし、人間は神様がいなければどうして善良でいられるだろうか、だれを愛せばいいのか、だれに感謝をして、賛歌を歌えばいいのか。といってのけるあたりなどぷるぷる震えてたわ。この辺の思想だとトルストイの、「愛とは生命である」を思い出したが、そもそも神がいなければ人は人を愛する事が出来るのか? というのが問いなのだからあまり関係はないか。

いまおれにはな、何にでも、どんな苦しみにでも打ちかてる力があるような気がするからだよ。ただし、『われ、あり!』とたえまなく自分に言い続けることができれば、の話だ。何千という苦しみに囲まれていても……、われ、あり、なのさ。拷問に身をよじらせながらも……われ、あり、なんだ! 杭に縛られても、やはりそれは存在するし、太陽が見える、太陽が見えなくても、太陽があることはわかっている。太陽があるってわかってること、それだけでもう、全人生なのさ。

この辺だけ他の訳と見比べてみたがだいぶ違うのかな。特に目についたところといえば、全人生なのさ、というところが他のだと全生命なのさ、となっていることだろうか。

それからそれからなんといっても面白い対話といえば外せないのはイワンと悪魔の対話だ。なんといったらいいのかわからないけれど、とても面白かった。イワンが見えないものと闘っているところを想像するだけでおもしろかったし、会話の中身も面白かったし言う事なしである。そしてこの戦いを終わらせたのもアリョーシャであって、素晴らしい愛の伝道師っぷりである。最後の裁判場面は各自の証言のあたりはよかったものの、途中からもうわかっていることを繰り返し聞かされるので正直苦痛だった。

とりあえずこんなところで。