基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

浮上せよと活字は言う

浮上せよと活字は言う (平凡社ライブラリー)

浮上せよと活字は言う (平凡社ライブラリー)

 人の物語は、結局その人を表す一行の墓碑銘なのかもしれない。その墓碑銘を人に刻んでもらう為に、人は自分自身の物語を刻んで行く。「これを読んでくれ」と言ったまま、道の脇で死んでいる。それでいいのではないかと、私は思う。その一行だけで、人は後世の人間に役立つ有益な何かを残すのだ。
 言葉というものは、それだけ濃厚な価値を秘めた重要なものだと思って、私は『中央公論』誌に連載されたこの訳の分からない文章に、『浮上せよと活字は言う』と題をつけた。
 様々の具体的なディティールを持って、活字という思考の根源が、再び姿を現すことを祈って──。──268P

 これは本当に素晴らしいタイトル。だからこそ、中身も素晴らしい。タイトルが優れているか、いないかということは決定的に中身を変えてしまうとぼくは思うから。しかし中身ももちろんいいですよ。橋本治の本の中でも例外的に読みやすいから。なぜかといえば、橋本治はいつも一歩引いたような、超越的な語り方をするけれど本書では少し熱が入っているせいです。そのおかげで、書き手が見えるというかなんというか。それだけこの「活字離れ」というテーマが、橋本治にとって重要なのでしょう。橋本治から傑作を五冊選べ、と言われたら迷わず一冊はこれを選びます。余談すぎますけど、これ程の一冊がほとんど誰にも評価されずに野に置き去りにされているというのは、本当に納得がいかない…、まあ、おいときましょ。橋本治に対する評価が高いのか、低いのかはよくわからないですし。

 さてさて申し遅れましたがこの「浮上せよと活字は言う」は「何故活字離れは起きたか」を解き明かす本でもあります。上でも引用しましたように、言葉とは思考の原動力です。何故なら、人は言葉によって思考するから、当然のことです。言葉によって思考し、言葉によって知り、言葉によって整理します。ならば、その言葉が失われつつあるとしたら、それはまあ、端的に申し上げて「日本ヤベェ」って感じですよな。活字離れすぎて、もはや活字離れっていう言葉も聞こえてこないぐらいですから、今は超活字離れでしょうか。

 しかしまあ、「活字離れ」というのは問題の簡略化にすぎるといえます。文字こそは思考の源泉であるからして、それを平然と「離れた」と言ってのける傲慢さには片腹痛いと申しましょうか、「活字離れ」問題のわかりにくさはまずその点にあります。むしろこの「活字離れ」という言葉は、「活字離れ」だから「しょうがないよねー」といって「読まなくてもいい」という勘違いを起こさせたんじゃないでしょうか。そうして安心しきった先に待っているのは、思考力の放棄です。本来ぼくらは思考力を獲得して、選ぶ自由が与えられるはずなのに、無知ゆえにそれを放棄する。それはどうなのよ、つー話ですよ。そうやって論は展開していきます。具体的には、「何故人は本を読まなくなったのか」に対する答えは「日本が変わっていったから」ということになるのでしょう。

日本は変わった

 日本がどう変わっていったのかといえば、「いま私たちが考えるべきこと」に詳しく書きましたけれど、かつての日本人は所属している組織、風土と共にあった。ようするにムラ社会だったわけです。しかし今は違う。ムラの外に目を向けるようになって、コミュニケーションを取ろうとするようになった。そうなって初めて日本人は孤独を知ったのだ。「ムラ」が効力を持たなくなった日本では、個人は個人でしかないのだ。みんなが孤独で、しかしそういった孤独な日本人を救いあげてくれるシステムが未だ日本にはない。そのシステムは、政治の仕事でも福祉の仕事でもない。昨日読んだ「コミュニティを問いなおす」ではしきりと「孤独から救いだすのは福祉の力だ!」と主張していたけれど、それは違うと思う。

 福祉ではなく、人間の孤独を救うのは「文字の仕事」なのじゃないか。「自分の孤独」とは「他人の孤独」とはまったくの別物なのだ。福祉がもたらすのは、「みんなの孤独」という虚像にすぎないのではないか。みんな「自分だけの、他人とは違う孤独」を持っている。それは言葉では説明できないあやふやなもので、だからこそその答え、という相手にも孤独があるのだということを知って、その一致を求めて、「ムラ」が無くなった現代で勝手にコミュニティを作ったり破壊したりしているんじゃないか。←これが、変わった後の日本人です。

じゃあ何故本を読まなくなったのか

 そもそも世界的規模で見れば、日本はメチャクチャ「本が売れる」国なんですよね。橋本治の実体験が本書では語られていて、「桃尻語訳枕草子はどれぐらい売れたのか?」というイギリス人に対して橋本治は「上巻だけで35万部」と答えたら、いg「じゃ、あなたは一生なにもしないですむ大金持ちじゃないですか」といったという。英語圏は世界的にみると広いですが、本を読む人間は凄く少ない。日本の市場だけで、全英語圏とタメをはれるぐらい日本人は本を読んでいるんです。日本での初版と、全英語圏の初版がほぼ同じ数ですから。それは正直いって、異常な出来事ですよなあ。

 当然問題は「なぜ日本ではそんなに本が売れるのか?」に入っていきます。鋭くね! 橋本治は「日本には支配階級と労働階級の間に壁がない」だから、大衆がやたらと本を読むのだと言っています。まったくその通りだと思います。しかしそもそもなぜ大衆がそんなに本を読むのかと言えば、元々の識字率の高さもありましょうが、本来文化をけん引していく暇な支配階級であるところの武士が、暇にまかせて遊び呆けていたばかりで、文化を世に送り出さなかったからでありましょう。文化がないんじゃ大衆はつまらんので、必死に外国の文化をアレンジして、大衆が文化を送り出してきた、というのがその根本的なところじゃないかなーと思います。

 で、本を読まなくなった理由を橋本治は、「大衆が受け手であることに飽きた」と簡単に言ってしまっていますがこれはちょっとなんかわかりづらいです。「なんで飽きたのか」ってところに問いが発展しようがないからだと思うのですけれど、だってそうでしょ、飽きるのに理由なんてないですし。いやあるかな、しかしまあ、受け手であることに飽きた理由をあげるとするならば「飽和」のひと言につきますし、この一冊の本における問い、「なぜ本を読まなくなったのか」が「みんなが飽きたから」じゃ悲しいってもんでしょうってことがいいたいんですが。もうちょっとかっこいい答えを考えてみたいですね(なんだと。