基本読書

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今こそアーレントを読み直す

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

 「なぜ今アーレントなのか」という問いにこの本が答えられているかと言えばそれは少々疑問ではある、というかぼくには全然わからなかったんですが、それ抜きにしても「アーレント解説本」として非常に面白い一冊であることは確かです。なぜこの本を突然読み始めたかと言えば、今ちょうどアーレントの「人間の条件」をじわじわと読み進めているからであって、またそれが非常に難しいからでもあります。難しいというのにも大別してしまうと二種類あって、一つ目は意味のある難しさ、これは著者自身が狙って演出した場合と、どうしたって難しくならざるを得ない難しさがある。そしてもう一つは意味のない難しさ、単に著者の説明が下手あるいは言語圏の違いからくるすれ違い、という場合があるかとは思います。で、アーレントの難しさがどちらなのかといえば当然前者なわけです。意味のある難しさとはつまり、深みとも訳せるわけであって、深い作品はそれだけ長く語り継がれる。意味のない難しさ、言葉の違いからくるすれ違いも、それは当然翻訳に限界がある以上出てくるわけであって、この本ではそのズレを修正する試みも行われています。その点が非常に良かった。

 何しろアーレントが使う哲学用語というのは「活動」とか「労働」とか「仕事」とかっていう、日本語ではあまりにもありふれた用語にも関わらずアーレントが使うとその意味は現実に使われている言葉の意味とかけ離れてしまうんですね。翻訳のズレというところに話を戻すと、たとえば「活動」という言葉は英語ではAction なのですが、アーレントは「活動=Action」の言葉に「演劇=Action」というような意味を含ませているというんですね。そんなこと、翻訳で読んでいる限りでは気が付くことが出来ない。アーレントを読む、ってなった時にまず最初に戸惑うのはこういった言語の解釈の難しさで、これを理解するのがなかなかハードなのです。そう、アーレントが語ることは難しい。そして難しいのだったら、それは簡単にされるべきなのだろうか、というテーマがこの本にはある。どうしたって難しくなってしまうものを簡単にしてしまった時に、そこでは何かが失われてしまうんじゃあないか、という話です。

 アーレントの難しさというのは使う語句の解釈が独特という以外にも「答えを言わない」故の難しさがあります。「これこれこうするのがいい」とか、そういうことをあまり言わない。アーレントの分析では近代市民社会では、競争に疲れ果てた人たちの間で自分で考えるのを放棄して、様々な問題を一挙に解決する「答え」を示してくれる英雄のようなものを待望する気持ちが大きくなるという。自分で「考える」ことを放棄して、誰かに全部任せよう、答えを見つけてもらおうとするわけですが、アーレントはそういった人間を否定するわけです。否定した後にどうするのかっていったら、「われわれはこれからどうするのか」「善とは何か?」というような問題について、オープンに討議し続けることが人間として存在するために必要なことだという。また別の例では、これこれこういう解釈があります、またこれこれこういう解釈もありますが、これはどちらも間違いです、終わり、というような語り方もする。結局なんなんだよ!! と読んでいると思うわけですが、それを「アーレントはあなたに結局なんあんだよ!!」と言わせるために書いているのです、というように解説してしまう。結局なんなのかわかられてしまっては困るからそんな書き方をしているのに、結局なんなのかわかってしまったらそれはいいのか、悪いのか?

「話を簡単にする」読みが世の中にはありますが、しかしその大部分は、とてつもなくでかいものをわかりやすいサイズにちぎって、なんとか自分たちで活用できるようにしているだけなのではないか。その過程では少なからず何かが失われているでしょうが、また何かが付け加えられてもいるはずで、わかりやすくすることも時には必要で、この本はどーなのか、という話ですが、非常にわかりやすい。それがダメかというと、別にそーでもないという気がする。著者はあくまでも自覚的に行っている訳だし、それを幾度も本文の中で断っている訳だから。