基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

書くことについて〜

 『ロボットとは何か』では、著者の石黒浩さんはロボットを作る意味についてこう語っています。「人間の機能をロボットにどんどん移し替えて言って、人間には最後に何が残るのかを知ろうとしている」。これって、書くことについても大体同じなのじゃあないかと思いました。自分の中にあるものを、文章に移し替えて別の場所に保存する行為。これは私だけかもしれませんが、ブログに書いたことはすぐに忘れてしまいます。「感想をブログに書いたんだから、覚えてるだろ?」と言われることがごくまれにありますが、「ブログに書いたからこそ安心して忘れられる」のです。もし忘れてしまってもブログという外部記憶装置に保存してあるから、大丈夫だという安心の為にブログやTwitterを書いているともいえます。思い出すことがあっても、自分の頭の中を探って思い出すと言うよりも、ブログに何て書いてあったかを思い出す感じです。

 そうやって書くたびに私の中にある日ごろの考えとか、昔あった出来事とか、考えていたこととか、過去のエピソードなどが、どんどん移し替えられていく。そんなことしていると、なんだか自分の中身が減って行くような気がします。まあその分ガンガン入れている訳で、総体として減っているのか増えているのか、どうなのかはわかりませんが、感覚としてはブログやTwitterにもう一人の自分自身を作り上げているような感じ。まさにロボットを作る石黒さんの気持ちと同じなのですが、ちょっと違うのは、別に私は全てをブログに書いてしまった後自分の中に何が残るのか、見ようとして書いている訳ではないんじゃないかなーと思うんです。ここに書くのは私の考えでも、別に何もかも書いている訳ではないですしね。そもそもどうやって自分の考えを全部書くんだって言う。考え、っていうのはまあ、自分の中に常にあるわけじゃあ全然ないですからね。大体同じって書いたのは、そういうところがあるからなのです。同じなのは、移し替えという部分のみだと思います。

 そんでもってブログをこうやってずーーーーっと書いていると、書かれたものを読んでいるだけでその人(自分の事ですが)のことがわかるような気になってくるんですよ。Twitterでも同じですけど。まあそりゃそうかな、っていうね。で、自分の書いた文章を読んでいると、知らない人が書いたものを読むような気分になるんですね。話は微妙に飛びますけど、普通自分の顔や体って、鏡を見ないと全体像を把握できませんよね? そりゃ手とか足とかお腹とかは見れるけど、立っている姿がどんな風かとか、全体の印象はどうだとかは、鏡の前に立たないとわからない。私が書くことについて求めているのは、そういうことなんじゃないかと思うのです。ブログに自分の思考をとりあえずおいてみて、それを外から眺める為に書いているんじゃないかなって。いわばブログは鏡なんですな、自分がどれだけアホなことを言っているか、自分が何を知らなくて、何を知っているのか、それを見極める為の、思考の鏡。私はそれを見て思考を「もうちょっとこうしよう」とか、自己の変革を行う。書くことの意味って、そんなこともあるのかな、って思うのです。書くことに何か大いなる意味づけをするのはどうかとも思うんですがね。

ロボットとは何か――人の心を映す鏡  (講談社現代新書)

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