『熟成する物語たち』というタイトルだけでは何について書かれた本であるのか今いちわからないかもしれない。「熟成する」という言葉はあまり物語に対して使われる言葉ではないからだろう。いまいちイメージが湧かない。が、テーマが「ワインと読書」ということになれば、この組み合わせは経緯はともかくとして、納得のものになる。本書はワインと読書に本質的な共通点を見出し、魅力を引き立て合わせてくれる本になっている。
しかし珍奇なとりあわせだ。ワインと読書には一考して共通点が感じられない。ただ著者は翻訳家として幾冊も翻訳してきた鴻巣友季子さんであり、同時に彼女が無類のワイン好きであるからこその知識の結合がみものである。たとえばワインと読書についてのこのような記述に、読んでいてはっとしてしまった。
ワインというのは、ほとんど「記憶を飲んでいる」と言っていい。栓を開けるまでの時間を飲み、飲んでからは記憶に転じて、実際その液体に接していたのよりはるかにはるかに長い時間つきあうことになる。
それは本を読むことにとても似ていると思う。記憶のなかでの再読を経て、本は人の頭の中でどんどん姿を変え、熟成していくではないか。
ワインも本も記憶に転じてからが本番なのだ。
鴻巣友季子さんは書類を提出し、結婚をした日に自分が生まれた年に生まれて熟成され続けてきた一本のワインを開けたそうだ。その時のワインの記憶が、ずっと残っていると。僕もむかし読んだ本を散歩したり、ただ目的地に向かうために歩いている時に頭の中で再生して、楽しむことがよくある。その時思うことも毎回同じではなく、変化しているものだ。そうやって自分自身が少しずつ書き換えられていく。そこまで含めて「読書」だろう。
面白いポイントはそれだけではなく、翻訳者からみた翻訳論、文体論、評論、言語論まで読めるところだ。論自体がとてもよく出来ているものもあれば、翻訳者ならではの発想から出た疑問の追求も多く、単なる「読書を肴にワインを語るうんちく本(うんちくはそもそもない。ありがたいことだ。)」ではない。
僕はいわゆる評論を読むなら、評論家が書いたものより翻訳者が書いたものの方が読みたいと思っていたが、やっぱり面白かったな。何しろ翻訳者というのは、著者ほどではないにしろ長い期間をひとつの作品を向きあって過ごすのだ。その間に多くのことを考えるだろう。
また同時に、ある言語を他の言語に置き換えていくのは単なる右から左に移し替えていく単純作業ではない。それは常に思考を繰り返し、過去に参照するものがない新たなものを生み出すれっきとした「創造行為」なのだ。そうした骨太の各論を語りつつ、最後にワインと読書の共通性について語ってオトす論展開は読んでいてとても楽しい。
本書を読んでいてよかったのは、異質なものが予想外につながっていく快感だ。副次的な効果として、何よりワインが飲みたくなった。読書好きはワインが飲みたくなり、ワイン好きは読書がしたくなったことだろう。読書好きとワイン好きに、それぞれオススメの一冊だ。どっちも好きな人は……
- 作者: 鴻巣友季子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/04/27
- メディア: 単行本
- クリック: 1回
- この商品を含むブログ (3件) を見る