基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

努力についてとか趣味は仕事にするなの理由とかについて

毎日ブログを更新して凄いねーとたまに言われるのですけれども、これは別に凄いことではないのですよ。凄いと感じるのはたぶん努力とその他が混同してしまっているからなのではないかと思います。努力とその他の違いについて考えると、というかググると最初にWikipediaが出てきてこう言います。『努力は、ある所定の目標を掲げ、そこに到達する事を欲して、邁進することである。』

これを読んであーなるほどおと思ったのは、つまり「ブログを書く」というような行為は別に何か目的があってやっているわけではなく、目的があるとすればそれは「ブログを書く」ことそのものにあるわけなんですよね。たとえば学校の放課後みんなでサッカーをするとか、仕事が終わった後帰って漫画を読むとかゲームをするとかそういうのと同じなわけです。つまりこれは努力ではなく趣味ですね。

つまりここで考えたかったのはただの趣味と努力を混同すると「その人に対する評価がおかしくならないかな?」ということです。単に趣味で好き勝手書いているだけなので、多くの人が漫画読んだり小説読んだりゲームするのが別に凄いわけではないように、「私は全然凄くない」「評価に値しない」。「じゃあいったい何に対して評価すればいいのか?」という話で、以下は「努力と才能」どちらに価値があるのか? というような話です。

努力と才能どっちに価値があるの?

今読んでいる『これからの「正義」の話をしよう』には、平等をめぐる議論を扱った章があります。「公正さ」こそが正義、「平等」こそが正義なのだという章でジョン・ロールズの格差原理を扱っています。その中で面白かったのは、「才能」を持っている人間は利益を得ることが出来るが、それは自分自身の力で得たものではないので社会に還元しなければいけないというわけです。自由主義的や実力主義的な、機会さえ均等ならあとは自由市場の中で好き勝手に金を稼ぎな、というのは間違いだ、なぜなら金を稼ぐ手段としての能力がそもそも「自由」に選ばれたものではないからだと、そういうわけです。

で、本当に面白かったのはこの先で、「才能を開花させる為に俺/私は努力したぞ!!」という反論が当然あるわけなのですよ。イチローだってバッティングの才能はあっただろうけど、その為に凄い努力をしたわけです。イチローにはその対価を受ける権利があるじゃないかって。でもこういうわけです。

 社会のどこに生まれるかを自分では決められないように、生来の資質も自分では決められない。能力を開花させるために努力するという優れた性質を備えているからと言って、それは自分にその価値があるからだと考えるのも問題だ。このような性質は、恵まれた家庭や幼少期の社会環境など、自分の功績とは呼べないものによるところが大きいからである。功績の概念はここには当てはまらない。

「才能だけじゃなくて努力さえもその人自身で得たものではない」と。まあ確かに言われてみれば努力するというのも才能っちゃあ才能ですよねえと納得してしまったのです。「だったら、いったい何がその人自身の価値、功績になるんだよ?」と当然疑問に思いますが、その辺曖昧でよくわかんないんですよね。「ゲームのルールが決まらないと功績も価値も、評価することはできない」といって、だから「公正な制度」を作らなくちゃいけないと言っている訳ですが、具体的な中身はよくわかんない。ひょっとしたら書いてあるのかもしれませんけどね、どっかには。まあそこまで考えるのは哲学者の役割じゃないのかなー。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

趣味は仕事にするな

よく趣味は仕事にするなとか言いますけど、その理由もこの「努力」の定義からなんとなくわかります。仕事とは「目標」を定めてそこに向かって行く行為、つまり「努力」なんですよね。その過程で、例えば小説を書くことが趣味だ、と言う人が同人誌でもネットの連載小説でもしていたら、スカウトされてプロデビューしてしまった。そうしたら今までは物語を書くこと自体が楽しくてやっていたのに急に「自分が生きる為」とか、家族がいたら「家族の為」などの「目的」が出来てしまって、行為自体に価値を見いだしていた時とは違って「目的」に対する「手段」になり果ててしまった時に昔のような純真さがなくなっちまったな……とかいって自嘲して、後ろから追ってくる人たちに「趣味は仕事にするな」とか言うんだろうなと思いました。

で、同じようなことをハンナ・アーレントも言ってたような気がするぞ? と思って『人間の条件』をぺらぺらと読み返していたらこんな箇所がありました。

 人間は、<工作人>である限り、手段化を行なう。そしてこの手段かは、すべての物が手段に堕し、それに固有の独立した価値を失うことを意味する。したがって、最後には、製作の対象物だけでなく、明らかに人間の助けなしに生成する、人間世界から独立した存在である「地球一般とすべての自然力」も、「仕事から生じる物化を提示しないゆえに価値を」失う。古典時代のギリシア人は、人びとが道具をもって仕事をし、「それ自体意味のある理由のため」ではなく、なにか別のものをつくるという「目的のために」あることを行うような工芸の分野全体を banausic であると宣言した。ついでにいうと、この言葉は、便宜主義の観点から思考し、活動する卑俗さを意味する「実利的」(philistine)という言葉に翻訳するのがおそらく最もぴったりする用語である。(P250──人間の条件/ハンナ・アーレント

道端に生えている「木」を「いつか椅子になるための材料だ」というようにしか見なかったり、そういう見方で世界に存在する物を見るようになってしまったら、世の中から物の価値は消え去るというわけです。たぶん趣味を仕事にするなっていうのは、趣味が仕事になるとというのはギリシア人が言うところの banausic 、実利的に変化してしまい、価値がなくなってしまうのだというわけです。なるほどなぁ〜と思いました。

努力について考えていたらなぜか趣味は仕事にするな、とか書いていてとてもびっくりしました。

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)