基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

若い小説家に宛てた手紙

今年のノーベル文学賞を受賞した作家が、この『若い小説家に宛てた手紙』を書いたバルガス=リョサ氏なのであります。言うまでもなく僕は「スゲー! ノーベル賞を取った人の本をなんか読んでみたいなー!!」と思って適当にこれを手に取ったわけですが、これは小説……ではなく、「若い小説家への手紙」という体裁で書かれる、「小説の書き方の指南」です。

んっんー、まあこれはタイトル通り、『若い小説家』もしくは『小説家志望』の人が読むべきものであろう、と読み終わってみたら思いますね。小説の技法、説得力を持たせる方法であるとか、文体について、語りて、時間、現実のレベル、入れ子構造と、既存の作品をそれぞれ具体例として挙げながら、様々に語っていきます。

しかしいわゆる軽文家、エンターテイメント的な、日々楽しくおうちで文章を書いて、印税がっぽがっぽうれしーな、的な人に対しては、バルガス=リョシャが目指しているであろう小説家像には、まったく、書かれていないので異常にハードルが高いのですが。

それではいったいどのような人を、バルガス=リョサは『小説家』と定義しているのか?

作家を彼は「サナダムシの寓話」で説明します。ここからはサナダムシの寓話の説明です。

十九世紀の貴婦人は身体についた脂肪を落とし、すらりとした体型を取り戻す為にサナダムシを丸飲みにすることがあったといいます(ほんとか?)。サナダムシは体内で生息し、宿主と共生し、養分を吸い取り成長していき、いったんはいれば駆除することは不可能だったとか。なんじゃそりゃあ……

著者の友人にも体内にサナダムシを飼っている人がいたそうで、その人はサナダムシが欲しがるので絶えず物を食べ、飲み物を(特に牛乳だとか)ぐびぐび常に飲んでいたそうです。しかもそこまでしてもがんがんやせていくとか。ひええ。

サナダムシを飼っている友人が語ったところによると、自分が生きるためではなく、サナダムシの為に生きているような気がする、自分はあの虫の奴隷でしかないような気がしてならないといったそうです(気がするじゃなくて、まったくその通りだよと僕は思う)

「作家の置かれた状況とは、このサナダムシを飼っている友人のようなものだ」と著者は言うのです。ひええ、恐ろしい。自分が飲むのも食べるのも、いきている時間全ては文学というサナダムシの為になる。

文学を志す人は、宗教に身を捧げる人のように、自分の時間、エネルギー、努力のすべてを文学に捧げなければなりません。そういう人だけが本当の意味で作家になり、自分を超えるような作品を書くことのできる条件を手にするのです。

結局のところ読み終えてみれば、文体などといっても「自分が語りたいと思っている内容にもっともふさわしい文体を作り上げなければあなたの書く物語が説得力を持つことはないし、命あるものにはならない」とか、テーマについては「扱いやすいテーマなんかを選ぶのではなく、自分の経験の奥深いところから生まれてきて、これだけは語らなければならないと考えられるテーマ以外すべて排除することによって小説家の誠実さが生まれる」というような、かなりの抽象論に終始しています。

正直言って僕は自分の経験の奥深いところからテーマが生まれてくる感覚や、自分が語りたいと思っている内容にもっともふさわしい文体を作り上げるとか言われてもさっぱりピンときませんでした。しかし著者は最後にこんなことを書いているんですが、「創作法などは伝えられない」んですよね。恐らくそれは、小説を書くと言う行為がかなり純粋な部分まで「個人的」な作業だからなのだろうと、読んでいて思いました。

ありのままの現実や自分のいきている生活に何ひとつ不満を抱いていない人が、架空の現実を創造するといった他愛のない妄想に時間を費やしたりしない、だから物語は現実に対する疑念、反抗心から生まれてくるのだろう。できれば現実を、自分の想像力と願望が生み出した世界ととり変えたいと思っているだろう、と本書ではいっておりまして。

恐らくそのような願望はあまりにも個人に深く根ざしているが故に、「個人的」な作業であり、その個人的な作業を表現する方法は、人それぞれ違うものになるのだろうと想像し、書いたのです。本書が真に教えてくれるものは、創作の小手先の技術ではなく、小説家としての心構えなのでしょう。小説家よ、サナダムシを体内に飼え。熱い小説家魂が感じられる一冊でした。

若い小説家に宛てた手紙

若い小説家に宛てた手紙