内田樹先生の人参と鞭戦略による教育が失敗するという着想元はここだったのかという元ネタ的発見。「機会平等」によって誰しもが「努力すれば」平等に扱われる日本社会において、そもそもの「努力する才能」の部分に「出身階層」による「スタート時点における不平等」が存在しているという指摘は卓見であろう。事実出身階層別による(両親の学歴と子どもの学習意欲をとったシンプルなアンケートだが)では、出身階層が下の子どもほど理解度および学習意欲の値は平均として下がる。
現代のように知識の陳腐化が速い時代では、「たくさんの知識ストックを持っている人間」よりも「高い学習能力によって知識をどんどん入れ替えていける人間」を雇ったほうが、使い道にならない人間を抱え込むという不確実性のリスクを避ける事が出来る。ここで人的資本かとしての投資家(全員)にとっての利口な選択とは、それぞれに異なる労働市場でつけられる価値を見越して投資効率が最大化するように学習機会を選ぶことになる。
このようなことすべて(何を学ぶべきかの判断力、いかに効率的に学ぶかという力)が「学習能力」に依存している。このような前提はいくつかの矛盾を含んでいるという指摘が興味深い。仮に眼の前に同じだけの選択機会と資源を割り当てられたとしても、それをどのように活用し自分自身への投資として価値を見極め習得していくかには個人差が存在する。主体性に任せるばかりの学習論は容易に格差を認めることに繋がるだろう。
たとえば「自ら学ぶ」ことが礼賛されるが、その自ら学ぶ主体自身はその力をどのようにしてつけるのかという問題である。学習の資本主義化は選ぶことを可能にするのではなく、選ぶことを強制するのである。結果「自分で選んだんだから何が起こっても自己責任でしょ」というトラップ的な落とし穴が発生する。格差を認めるどころか個人の責任にされてしまうかもしれないというのはおそろしい。
教育をめぐる問題においてここに書いたことはほんのさわりでしかないことが本書を読むとわかる。具体的にはこの先団塊の世代に対応するために大量に雇われた40代50代の教師たちが辞めた後の教師の空洞化(教師の枠は決まっており、一時的に増やしたからといって減らしたり増やしたりできないので、短いスパンで大量に雇うと年齢層が大幅に偏ってしまう)がさしあたっては問題だろう。
努力する能力に格差があるっていう発想がでも一番刺激的だったなあ。もっと早く読んでおけば良かった。
- 作者: 苅谷剛彦
- 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
- 発売日: 2012/08/07
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