基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

マルドゥック・ヴェロシティ

麻薬中毒に陥り敵と味方の区別がつかなくなった状態で友軍への誤爆という罪を犯す/消えないトラウマ/同時に存在する爆撃のエクスタシーに悩まされる虚無の男=ディムズデイル=ボイルド。どんなものにでも変身できる万能兵器として生み出され、その上意識まで付与されてしまった為に自分の存在意義=有用性について思い悩む一匹の考えるネズミ=ウフコック・ペンティーノ。この一人と一匹と寝食を共にするそれぞれ悲惨な境遇を背負った改造人間達。

彼らが寝起きする研究所が、そのあまりに巨大化しすぎた力と、戦争の終結=能力の使い道の消失により政府の強制介入を招いてしまうところから物語ははじまる。追いやられた彼らは、戦争が終わり行き場がなくなった自分達の唯一の能力=暴力を正当に生かすことが出来る場所を求めて閉じ込められた楽園から人間の住む街へ。行き着く先はマルドゥック・シティだ。

ダークタウン然とした空気、毒婦と呼ばれる謎の美女、拷問を専門とするカトル・カール(12人の戦士、全員特殊能力持ち)、いわくありげな検事、市長、刑事、ありとあらゆる胡散臭そうな奴等が跳梁跋扈している街。まともな人間など一人として登場しないこの街で、人はその暗い宿命を背負って死闘を繰り広げ、そしてエンターテイメントとしては例外的と言うほかない、爽快感も何もない、虚無としか言いようがない結末を迎える。

「何を・どうやって」書くかはよく悩むが、「なぜ」について本気で悩んだのは本書が初めてである。とあとがきで冲方丁本人が語っているように、本作の結末=破滅は読み終えても楽しく生きていこうなどというようなポジティブな感情は何ももたらさない。ただただ悲しくて、がんばって積み上げてきたものが全部消えてしまったというディムズイズ・ボイルドの心情をトレースするかのごとく虚無が残る。

でもね、僕はなんというか凄く泣いたんだよね。この後にはじまるある意味「希望の物語」であるマルドゥック・スクランブルよりも泣いた。それはなんていうか「病気で愛する人が亡くなっちゃった系の泣ける」ではなくて、たしかにそういう面もあるんだけど、もっと複雑なんだよな。それを説明するために、この物語についてもう少しだけ書く。麻薬中毒、味方への爆撃、それに伴う快感に対しての罪悪感を乗り越えて改造人間化⇒ウフコックとの出会い、能力の正統的な使い道の発見、その後。

ダークタウンに、秩序を打ち立てていくのが物語の前半パート。彼らは通常では考えられない技術=能力を持っていて、それ故恐れられるのだが決してダークタウンでその能力を暗殺・拷問・非合法な暴力に使うことはない。必ず法の下で能力を使い、法の下に相手を引きずり出し、地道に情報を集め法廷で相手を裁く。つまり、ダークタウンに光の道を作り上げていくのが彼らの目的だった。

彼らの人並み外れた技術・能力はその有用性を自分たちで決めるのではなく、民衆に差し出し、民衆に決めさせることによって成立している。行き過ぎた武力が個人の手に握られては破滅をもたらすことは歴史が証明している。彼らは突出した技術の暴走=破滅を防ぐために、あくまでも自身を社会にさらけ出し、また社会に還元させるために社会矛盾と一体化させることを選んだのだ。一体化させるターゲットが犯罪はびこるマルドゥック・シティだった。

物語が虚無=個人に制御されなくなった暴力の行く末に落ちていくのは、これらの試みがすべて無に帰していくときで、その原因=相手は何かといったら同じような能力者集団ではなく「都市」そのものだ。彼らが一体化しようとした社会のルールが彼らに対して牙をむく。ウフコックと共にルールにのっとった道を歩み始めていたボイルドはそこで道を踏み外すのだ。

悲しいのはまさにここだ。信じていたものに裏切られ、それどころか信じていてくれたものを裏切ったという絶望。その後の本編で何度として立ち向かってくるが内面はほとんど見えないタフなライバルの心のそこに、これほど深い絶望があったのかという気付き。主人公なのに、丁寧に段取りを整えられて着々と絶望への道を歩まされる様が哀れでならない。

そして何故かその絶望にとても惹きつけられるのだ。たぶん誰しも自分の中に「暗い欲望」みたいなのを持っているものなのではないか。あることをやってしまった時にどうしようもなく後悔すると同時に、快感も覚えているというように。実際にはそんな力はないので実行にうつされることはないものの、「無茶苦茶にしてやりたい」と思う事だってあるのではないか。

怪物と戦うものは自分も怪物にならないように注意せよとニーチェだか誰だかが言っていたが、そういう欲求との戦いってのは随分昔から繰り返されてきたんだと思いますね。相手がルール無用でやってくるんだったらこっちだってルールなんか守らねえよ、ってなったらそれ相応の状況に落ちていくしかないのだ。スターウォーズだってそういう物語だもの。ようは神話なのだ。

痛快娯楽能力者バトルという枠組みを与えられておきながら、これだけ救いようがなくグロテスクな物語に出来るというのも珍しく、さらにはそれが傑作だというのだから恐ろしい。セリフ回し、構成(100パートから始まり、0で終わる)、文体(スピード感と圧縮された情報を表現するクランチ文体)、演出と何よりキャラクター、どれをとっても一級品であり、全体の完成度は凄まじい出来だ。

中でも特筆すべきなのはクランチ文体と呼ばれる冲方丁独自の文体だろう。=/などを用いて記号的に状況/心情の描写を行っていくその文体は、物語の加速感を表現し状況の圧縮に寄与していると思う。いつもならこれぐらいの文章量だと1巻あたり2、3時間で読めるが、普通に4時間ぐらいかかったもん。何よりこれが一番重要だと思うのだが、このクランチ文体は・・・めちゃくちゃかっこいい。

記号的な文体は改造によって性欲や感情がほとんど無くなってしまったボイルドを表現するのにも、これ以上ない文体だった。そういう意味で言うと退廃的で改造を受けた人間たちを大量に書いている点で、マルドゥック・スクランブルよりもこちらのマルドゥック・ヴェロシティの方がよほどこの文体にあっているのではないか。

セリフ回しも圧巻で、脳の中のなにをどうこねくり回したらこんなセリフが出てくるんだろう。光圀伝を読んだすぐ後だから思うことだが、時代も状況もジャンルも何もかも違う作品でこれだけセンスのあるセリフを書ける才能にはただただひれ伏すばかり。短いものだと『こちらが私の兄弟たちだ。それぞれ重要なポストに、座るのではなく、階段代わりに足を乗せている』とか。

いろいろ書きたいが台詞については何を書いてもネタバレになってしまうので無理だった。でも特にヒロインとボイルドのやり取りが全て好きだった。完璧なんだよね、やり取りが。ありきたりなやり取りが一切無く、二人共自分の役割と感情ってものを完全に割りきって会話をしている描写と、漏れでてしまう感情の描写が。こんな会話が書ける人間が何人いるだろうか。

正直言ってこのまま書き続けたら最初の場面の凄いところはここで〜と全エピソード解説をはじめてしまいそうなのでここいらで切り上げるとするけど、とにかくどんな要素を切り取って仔細に眺めてみても凄い作品なんだよ。こんな作品がこの世界にあることを感謝です。ありがとう、ありがとう。最後に卑怯ですがあとがきより引用させていただきます。

肯定すべきではなく、かといって無視すべきでもない。そういうものを列挙することに、果たして意義はあるのか。
ときとして暴力は、素晴らしい効果を発揮するのだと公言する意義は。
そんなものはない。そう言い切れる楽観こそ、本書の意義であって欲しい。
最善であれ最悪であれ、人は精神の血の輝きによって生きている。
そしてエンターテイメントは、最悪の輝きさえも明らかにするのだ。
残された虚無──その輝きを