基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。

一度だけ松丸本舗に行ったことがある。たしかオープンした直後ぐらいだった。人の頭の中にいるよう、本が様々な形態で並んでいて、たのしかった。本には文脈があるというのは本書で何度も語られることだが、まさにその文脈が見える形で提示されていたので衝撃だったのだろう。松丸本舗のような本屋は他にはない。図書館や本屋のように、ジャンル別で並べるのは「分類」であって「編集」ではない。

しかし、たんに情報をいくつかに分類しても編集にはならない。編集にはコンパイルとエディットがあるのだが、分類はコンパイルであって、エディットではない。エディットもしくはエディティングとは、いったん分類された情報に二次三次の編集をかけて、新たな関係を発見することをいう。そしてその発見された関係をいくつかずつ束ねて、もとの情報群を大きく読み替えされるようにする。その「読み替え」の可能性をつくりあげていくのがエディティングなのだ。

読書について、確実に言えることは「作家がいて、読者がいる」ということだ。だから僕は本を読んでいるとどうにも、作家との対話をしている気分になってくる。ここはこうして、この部分はこう構成して、そういう思考の流れが見えてくるとおもしろい。そういう意味で言うと、松丸本舗は読める本屋だった。どういう理由、どういう文脈でこの本がここにあるのかといった「創り手の意志」がみえる。

人は結局、人に感動するんだと思う。「よくぞここまでのものを創りあげた。考え尽くしたものだ」とその創りあげられたものをみて思う。そしてそれをやったのが自分と同じ人間であることを意識して、人間の限界というか自分自身の限界すらないのではないかと錯覚させてくれる。英雄譚の本質とは「人間の限界を乗り越えられると証明する」ものでありこれは個人個人の創作についても同じなんだろう。

蛇足かもしれないけど読める本屋という部分について補足。本にはジャンルがある。数学書とか、スポーツ小説とか、日本論とか。それは上で言う「分類」にあたるが、本はコンテンツなのでいくらでもその中に別のものを読み取って、まったく関係が無さそうな作品同士を結びつけることだってできる。たとえば「人生つらい時に助けになった3冊」とかいう文脈で編もうと思えば「エースをねらえ!」と「フラクタル幾何学」と「人を動かす」という「スポ根」「科学書」「自己啓発書」の全く異なるジャンルを並べられる。

そうした本の並びにはただの分類ではない編者の意図が絡む。その意図を読みといていくのが読める本屋であるという意味だ。それも棚ひとつが、などではなく本屋全体がその意図に満ちているのだから、脳の中にいるようだと多くの人が口を揃えて言うのもわかるだろう。最初に述べたように、他にはない本屋だった。このような本屋は、続いていくだろうと松岡正剛さんは語るが、どうだろう。僕は難しいんじゃないかと勝手に思っている(売り上げ的な意味と、構築力の問題で)。

とここまでは松丸本舗についての話。こっからは『松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。』についての話をしよう。これがまたいい本だった。「松丸本舗が閉店する」と聞いても、「そうか、閉店するのか」としか思わなかった僕だが、この本を読んでいたら実感として寂しくなってきてしまった。それだけ松丸本舗がやってきたことを精確に説明されていて(企画者が書いてるんだから当然なんだけど)「松丸本舗という一冊の本を読む本」として秀逸な出来だ。

思想の根幹にあるのはどんな本もどこかでつながりあっているという考え方で、ようは「本を読む行為はもっと広く捉えられる」ってことなのだ。誰かと一緒に本を読む。ジャンル別じゃない本のつながりを発見する。考えながら読む適当に読む観て読む並べて読む贈るために読む。松丸本舗自体が「一冊の本」だったと書いたように、読むというのはそれだけ広く捉えられるわけだ。

そういう「考え方の拡張」を教えてくれる一冊としても、たいへんおもしろかったです。松丸本舗がこれで終りになってしまわないことを願って。

松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。

松丸本舗主義 奇蹟の本屋、3年間の挑戦。