基本読書

基本的に読書のこととか書く日記ブログです。

あえて信者になるということ

宗教の話ではあるが、宗教の話ではない。

キリストだなんだのとそういう話ではなく、ある好きなコンテンツ制作者に対しての、態度の話である。小説にしろマンガにしろ、そうした「作品」は大抵の場合決まった値段で売られているが、実際的には「その人しか生み出せない独占的商品」なのであって、買う人がいるのならば一作5万円などの値段にしても、問題はない。ただ実際には「その人にしか書けない、超絶オリジナリティの作品」というのは滅多になく、そういうことはあまりおこっていないようだ。となんか話の枕に適当なことを話してしまったがこの後の話とはあんまり関係がない。

ある作品を我々が面白いと感じるのは、クールに作品を分析していった先にあるかといえば、そうではないことがほとんどだろう。体験した、まさにその時に多幸感や体温の上昇に伴った何らかの興奮、感情の動きを感じ、そのあとに事後的にいまのはいったいなんだったのだろうかという分析がくる。「ぜんぜん楽しめなかった」という人間に、それが楽しかった人間が「なんで!? こことかこことかこことか楽しかったじゃん!?」とその分析を話したとしよう。それを話された側はほとんどの場合、その人が「楽しんだポイント」がわかるだろうし、「自分が楽しむべきだったポイント」もわかるかもしれないが、そうした解説をきいて「面白かった!!」と体験した時の感覚が一転することは、まあまずない。

感動はようするに主観的なものなのだ。その時の、自分の体験が面白さに還元される。僕は普段はなるべくならフラットな感覚で本を読み始めたいと思っている。「これから読む本はおそらくは面白いだろうが、つまらない可能性もある。粗がある可能性があるし、時間がなくて適当に創りあげられた作品の可能性もある」といろいろな可能性を想定して、読んだり観たりする。しかし中には「絶対にこれは神の創りあげた傑作なのであって、仮につまらないと思うことが一瞬あったとしてもそれは自分が間違っているのであり、この聖典から自分は最大限できる限りの魅力を引き出さなければいけないのだ」と思いながら読む作家もいる。

僕にとってのそうした作家とは森博嗣先生と神林長平先生の二人だ。この二人の作家の作品は、だから僕はいかなる意味でも批判しようとは思わないぞ、と思って読む。仮に批判したくなったら、それは自分の読み込みが足りないからだと。こうした読みはいびつな、間違っているかのように思えることだが、しかし小説を読むというその主観的な体験を最大限効率化させるためには、こうした「あえて信者になるということ」が必要なのではないかとも思う。何かを見出そうと積極的に読み込むことによってしか見えてこないものというのもある。もちろん僕だってブログにいろいろと書く以上「あいつはどんな作品でも異常に好意的に読む」と思われたらちょっと嫌だなと思うから、そんな読み方をするのは二人だけだし、この二人の出す作品でつまらないなあと思いつつ無理やり面白味を見出したといったこともない。やはりそれだけスゴイ作家だと思うし、そうした安心感があったからそうした信者読みを始めたのだともいえる。

周りを見渡してみると、こうしたあえて信者になる読み・観方をしている人が、意識しているのか無意識的なのかは問わずとして、幾人もいるように思える。ほとんど信者と化していて、絶対的にそこから正しさを見出そうとする。僕はそれはフィクションを受容する態度として、好ましいものの1つだと思う。結局のところ、テキスト(広義の意味。映像も含む)から、引き出したもん勝ちなのだ。もちろんそうした人たちと、暇つぶしに読んだり、観たりしている人たちの温度差や、読み込もうとする熱意は全く異なるから、対話をしようとしても噛み合わないことになる。相手と自分がどれだけの正しさをかけて読み取ろうとしているのかを意識していないと、コミュニケートがうまくいかないこともあるだろうと思う。

現実の宗教と同じで、自分が信じる分には自由なのだ。信じている宗教で輸血が禁じられているから、たとえ自分が死ぬとしても輸血はしないでくれといって死ぬことも自由だろう。だがそれを他人様の玄関まで押しかけて勧誘するのは個人が行使できる自由を超えている。人は何を信仰するのも自由だ。それを人に押し付けない限りにおいては。僕はある作家を大変楽しく、そこから情報を最大限引き出そうと思って読むが、それは僕の個人的な営みである。

今回の教訓は、たまには信者読みをしてみるのもいいんじゃないかということと、信者読みをしている人としていない人はコミュニケートするときに温度差に気をつけようというあたりか。

だれの息子でもない

だれの息子でもない