基本読書

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簡素な台詞にのる物語的な重さについて

『……見ていて、ジェシ

上の簡素な台詞は『獣の奏者』という物語の終盤に出てくる。主人公であるエリンの台詞だ。僕はこの全4巻のそれなりに長い物語を通してこの台詞が一番好きだ。名言だと思う。しかし、この物語を読んだことがない人はこれがなぜ名言なのかわからないだろう。読んだことがある人なら、わかってくれるのではないか。「なぜ僕はこの簡単な台詞が一番好きなのか?」という説明を通して、台詞にのる物語的な重さについて考えてみたい。

一言でまとめてしまえばこの台詞が感動的で、読んだ時に涙が止まらなくなってしまったのは、これが今までの物語の重みを引き受けているからだ。まどか☆マギカでまどかを理由にほむらがループを繰り返したことによってまどかの力が増大してしまったように、物語のすべての糸が重なった最終点においてこの台詞は効力を発揮する。

そもそも名台詞というのは、それがどんなに単体で名言として、意味のとれるものとして機能しているものでも(カイジの名言みたいな)、物語の中であるからこそ意味をもっているわけである。こうした意味で言えば、どんな名言でも「物語の重みを背負っている」といえるだろうと思う(重みとはその台詞と物語に意味的なつながりがあればあるほど重いぐらいの意味で言っている。)

たとえば攻殻機動隊草薙素子が最後に言う「ネットは広大だわ……」という台詞も、これだけ読めば「はぁそうですか」としか思えないけれど、草薙素子がたどってきた経緯、人生があるからこそこの台詞に意味が付加されるのである。獣の奏者にあっても、台詞自体は簡素でも、物語の経緯をもってこの台詞に至っている。ようは短い台詞にどれだけの意味をこめられるのか、ということが台詞にのる物語的な重さである(と僕が勝手に言っている)

これを説明するために簡単に獣の奏者の物語を説明しよう。獣の奏者の世界には王獣というファンタジー生物と闘蛇というこれまたファンタジー生物がいる。王獣の方が闘蛇より圧倒的に強いのだが、人間には馴れないものとされていて野にはなされたりなつかないが縁起のいい動物として管理されたりしている。闘蛇は兵器として運用されていて、この力がエリンたちのいる国を周囲の国から守っている。

王獣は人に懐かないと言われていたが、エリンは自身の好奇心と観察力とそこからくる仮説・検証のサイクルによって今までの常識を突破し、王獣と心を通わせることができるようになる。驚くべきことだけど、もちろんこれでよかったよかったおしまいではない。闘蛇を簡単に屠る能力を持っている王獣はそれだけの力を持っているので、戦場に引っ張りだされそうになる。

エリンは当然兵器にしようと王獣と心を通わせたわけではない。巨大な力を持つせいで、政治的動物として扱われざるをえない王獣を、エリンは解き放ちたいと考え始めていた。だから王獣が兵器として部隊を組織し、戦場に組み入れられることに抵抗しようとする。しかし、結局核兵器が使われてしまい、今なお廃絶できていないように、強すぎる力を使わないように制御することは難しい。

その状況に重なって、エリン達の国は戦争に巻き込まれる。独占兵器だった闘蛇の操作と飼育技術が他国に流出し、他国に闘蛇部隊が出きてしまったのだ。王獣部隊を望む声は強くなる。闘蛇と王獣を戦わせると、カタストロフ的な大惨事が起こると失われてしまった伝説で語られていたが、エリンはついに自分の子どもや、愛する人々を守るため、そして王獣を人間社会から解放するという目的のために、ついに王獣部隊を結成する。

物語は1,2巻と3,4巻でわかれている。大雑把にまとめてしまえば1,2巻ではエリンが王獣たちと心を触れ合わせていくまでが書かれ、3,4巻でこの世界の歴史が描かれる。3,4巻のテーマは継承だ。人間は争いをそうそう簡単にやめることはできない。しかしやめようと努力した人間の思いを継承していくことはできる。それが望まない戦いに行くエリンの思いだった。

冒頭に紹介した台詞の、ジェシはエリンの息子の名前である。継承をテーマにした3,4巻で、ジェシは大きな役どころを担っているのは言うまでもない。

全編を通して最後のクライマックスである戦場におもむくエリンの目的は次に集約されるといえるだろう。「王獣を人間社会から解放する」「王獣と闘蛇が争った時に起こると言われているカタストロフをなんとしても回避する」「そうした自身の生きる姿勢を息子に見せ、継承していく」これはここまで物語が紡いできた糸であり、エリンが戦いに行く理由でもある。くだんの台詞を発した時のエリンは、まさにそのすべてを達成せんがために決死の戦いに身を乗り出しているところなのである。

「……見ていて、ジェシ」という簡素な台詞には、困難としかいえない前者2つを達成してみせ、ジェシの元に帰ってくる。あるいは達成できなかった場合はその責任をとって見せるという強い覚悟が。また、「そのような自分の姿をみていてくれ」ということで、エリンが明らかにしたカタストロフや王獣を兵器にすることの悲惨さ、あるいはエリンの生きる姿を目に焼き付け、継承していって欲しいとする物語のテーマを全て絡めた、複合的な意味合いを引き受けている。

単体でかっこいい台詞、深い台詞というのは多くあるけれど、僕はこういうそれ単体では名台詞として成立しないほど簡素な台詞に、物語的な重みがのっている名言が大好きだ。セリフってさ、説明するのに便利だからついつい長くしちゃうものだと思うんだけど、短い台詞で同じことが表現できるんだったら、そっちのほうがいいと思う。

僕はこの「……見ていて、ジェシ」という台詞を頭に思い浮かべるたびに、獣の奏者っていう物語が頭の中に展開するような感覚を覚える。ZIPに圧縮したファイルが、解凍されることによって容量が増えるのと同じように、簡素だけどその裏にある物語が再生されて、重くなるのだ。カート・ヴォネガットは文学とは自分で楽譜を演奏できる唯一の芸術であると言ったが、そういうことなのだ。

いや、ほんと獣の奏者、いいはなしなんだよ。3つもエントリ書いちゃった。他はたとえば神林長平『膚の下』の『それでも、わたしは、やったのだ』という台詞がある。今まで読んできた小説の中で、いちばん好きな台詞だ。この台詞もまた獣の奏者と同様に、そこまで流れてきた物語の重みが一点にかかっている。これもそのうちどこかの機会に紹介してみたい。